薄明かりの神の園


 15、暫しの別れ



「一つ、これだけは理解しておいてもらわねばならない」
 闇神ユリスラは甚く苦々しい面持ちでそう切り出した。
「ん?」
「私は侍神制度を――つまりは天界の支配を受け入れた訳ではないということだ。ただ、今更隠しおおせないであろうから言うが、私の身体はもう随分前から不調で、これから先悪化していく可能性が高い。故に補佐役が必要だった。シーア・ヌッツィーリナを傍に置くのはそういう理由だ。《闇》側世界がお前に降った訳ではない」
 それを聞いた天帝は苦笑する。
「分かっているよ、ユリスラ。此方としても渾神が今また暗躍し始めたという状況の中、《闇》側の頂点に立つお前に倒れられて、我々の意図しない状態で世界の釣り合いが取れなくなるのは非常に困るんだ。シーアはお前の補佐と、有事に際しての私直通の連絡役と思ってくれればいい。その手段は既にあの娘に渡してある」
 そうして、彼はじっと闇神を見詰めた。渾侍脱獄の一件からまだ半月程しか経過していないが、随分と顔色が良くなったように思う。やはり、彼は強い神なのだとしみじみ感心させられた。
「何だ?」
 そんな天帝の様子を訝しんだ闇神は眉を顰めて尋ねた。
 天帝は、今度は声を上げて笑った。
「いやな、以前からそうじゃないかと思っていたんだが、やはりお前は女の尻に敷かれる性質なんだよ」
「……何の話だ」
 呆れたように天帝を一瞥すると、彼に背を向ける。
 一方の天帝は潤んだ目を慌てて擦り、にやけた顔を整えた。
「お前も、もう行ってしまうのだな」
 ずっとこうして一緒にいられたら良いのに、楽しい時間はもう終わり。次に会う時はまた敵同士となる。ならばせめて、二度と会えないかもしれない別れ際の記憶だけは、美しくあってほしいものだと天帝は思った。
 無論、闇神も同じ気持ちだ。
「すまないな。お前やシーアの言う通り、渾神のお陰で世界はまた荒れるだろう。三度目の大戦を未然に防ぐ為にも、私も動かない訳にはいくまいよ」
「顔色は大分良くなったようだが、ちゃんと闇界までの旅路に耐えられる程度には回復しているのか?」
 こうして、無意識に闇神を引き止めようとする。何と未練がましいことだろう。こんな風になりたかった訳ではないのにと、過去に数えきれないほどの回数沸き起こった不満をまた自分にぶつけた。
「体調のことを言うなら、私はお前の方が心配だがな。カンディアも、もう大丈夫なのか?」
「いや、あれはまだ寝床で唸ってるよ。油断していた。思い付かなかった。まさか、こんな手段で来るとは。それも無能と名高いあの娘がだよ。やはり、腐っても救世王女アイシア・カンディアーナの妹ということか」
 渾侍に気を取られて、誰も目を向けることのなかった白天人族の王女メリル・カンディアーナ。少女の抱える、恐らく初めはほんの些細なものであったろう歪さに目を付けた渾神の眼力に天帝は戦慄を覚えた。
 やはり、彼女は性根の腐り切った邪神なのだと思う。
「地神オルデリヒドに、恐らくはペレナイカもだな。《光》側だけでさえ叛乱分子は少なくない。今回の一件で処罰され更に面目を潰された白天人族の不満もいつか噴出するだろう。そうであっても、あれだけの事件を起こせば白天人族を裁かない訳にはいかないが……。ふっ、大罪人の私がどの面提げて他人を裁くなどと言うのだろうな」
 先日久方ぶりに見た、光界を封じた〈封印門〉から漏れ出る光の筋。光界から放たれる眩いばかりの光。その記憶が無数の針となって天帝の胸を刺し貫いているようだった。罪悪感だけではない。大切なものを喪失した鈍い痛みだ。
「ポルトリテシモ、私は大丈夫だから」
 闇神も泣きそうな目をしていた。
「私も頑張るよ。だから、お前も頑張って生きていけよ」
 そう、闇神はいつだって優しかった。針山に置かれた一点の休息地だった。自身も苦しい立場だろうに、別離した友を遠くからずっと見守っていてくれていたのだと思う。
 なのに、自分はいつも彼を突き放し罵り続けた。如何に《光》側の指導者としての立場があったからとはいえ――。
 居た堪れなくて目を伏せた天帝は、心の内を隠すようにおどけてみせた。
「立場的にはどうなんだろうな、今の台詞」
 一拍おいて、闇神は噴き出した。
(天帝は強くなった)
 闇神は安心した。この様子なら自分が離れても問題なくやっていけるだろう。
「良いだろう、ひと時くらいは。何故なら――」
 そうして次に出てきた言葉は、少し闇神らしからぬ答えであったように思う。少なくとも天帝はその言葉を聞き、思わず息を呑んだ。

「何故なら今はヴァルガヴェリーテの支配する時代、不確定で混沌たる《渾》の世界なのだから」


   ◇◇◇


 遠く地上の世界から、二柱の神の会話を盗聴していたその女神はにたりと笑った。
「彼等に私を抑えることなんて出来ないわ。光神と先代闇神、それから四柱の外神しか知らないことだけれど、外神の《元素》うち、《渾》以外の三つは《光》や《闇》が生まれるずっと以前に《塊》から分離していたの。そして、《渾》とは全ての《元素》から取り残された《塊》の残骸そのもの。《元素》のお母さんなのよ。通説では《闇》がそんな風に言われてるけどね」
「だから、貴女こそが最高神?」
 そう尋ねたのは火神ペレナイカだった。
 渾神に付け入られないように珍しく平静さを装っているようだったが、その心中は風に煽られた炎のように渦巻いているのが分かった。
 渾神ヴァルガヴェリーテはにっこりと微笑んで火神の言葉を肯定した。
「シャンセやユリスラは何となく気付いているようだけどね。分かっていて、それでも私に逆らわなきゃならないってのは辛いところよね。……ま、それはどうでも良いことだわ。とにかく重要なのは、私をどうにかできるのはただ一人――アミュだけってことなのよ」
「分からないわね。そこまで気に入ってるんだったら。どうして、あっさり帰しちゃったのよ。側に置いておきたかったんじゃないの?」
「ふふ、貴女はそういう子だものね。良いの、私なんかに味方して? 今の体制が倒れれば侍神制度もなくなっちゃうわよ。貴女の想い人を側に留めておく口実も――」
「私は、侍神制度そのものは『悪くない』と思っているわ」
 決して渾神とは目を合わせようとはせず、しかしながら強い調子で火神は言い放った。
「ただ、そこに天帝が絡んでくることが気に入らないだけよ」
 そう言って、火神は腕を組み地上人の街の喧騒に耳を傾けた。彼女の視線の先にいるのは一人の少女と、少女を囲む数人の大人達だった。


   ◇◇◇


「そうですか。西国の宝石を……」
 旅装の男性は少し疲れたような笑顔で隊商の若い長と語らっていた。
 男性は四十歳半ば。巡礼隊の長に相応しく、神官のような慎ましさと巡礼歴の長さから身に付いた力強さを兼ね備えた人物に見える。
 その巡礼長の衣には幼い少女がしっかりとしがみ付いていた。
「加工済みの宝飾品も少し取り揃えておりますがね。アミュさんを見つけたユタの街にも買い付けの為に訪れたのですよ。あの街の翡翠は良質ではないが、市民階級相手の量産品として売れ筋商品の一つとなっておりまして」
 隊商長は「お一つ、いかがですか?」と勧めたが、巡礼長は丁重に断った。
 部下らしき女性にも睨まれ、隊商長は苦笑して頭を掻く。
「ああ、すみません。儲けのために彼女を助けた訳ではなかったのに、つい商売っ気が出てしまって。職業病ですかね」
「いいえ、とんでもありません。こちらこそ、この子を見つけてもらった上、ご親切にもここまで送り届けて頂いたというのに、何のお返しも出来ず申し訳ありません」
 天界へ迷い込んでいた間、地上ではアミュは行方不明ということになっていたらしい。
 巡礼隊は二日程出発予定を遅らせてアミュを捜したが見つからず、資金的にも時期的にもそれ以上の滞在は困難と判断して、彼女の捜索を自警団の手に委ねて街を出発したのである。
 しかし誰もが内心では、これだけ捜しても見つからないのだから、きっとアミュは事故に遭ったり自分で迷子になったりしたのではなく、人攫いに捕まってしまい、もう帰ってくることはないだろうと諦めていた。人攫いの仕業なら、アミュはとっくに街を出て、奴隷市場のあるもっと大きな都市に連れて行かれている筈だ。実際に巡礼の途中ではよくある話だった。
 そんな中、鉱物や研磨済みの宝石を取り扱っているという隊商がアミュを伴って現れたのは、巡礼隊が街や村を四つ程超えた先の、山麓の街に滞在している時だった。あと一つ街を越えれば目的地の聖都へ到着するという距離だ。
 巡礼長はアミュに対しても隊商の人々に対しても心底申し訳ない気分になった。
 項垂れる巡礼長に、隊商長は「いえいえ」と大袈裟に手を振って否定する。
「仕方がない。巡礼の旅路です。お気持ちだけ頂いておきますよ」
「有難うございます」
 ふと、隊商長はアミュを見た。
 身体は巡礼長の後ろに隠れながら顔だけ突き出して、疑いの眼差しでこちらを見上げている。よく、そんな人の良さそうな演技ができるものだ、と責めているような目だった。
(まあ、「殺す」なんて言っちゃったんだから、こちらも「仕方がない」……か)
 隊商長――否、宝石売りの隊商の長に扮したシャンセは深々と溜息を吐いた。
「長、そろそろ……」
 マティアヌスが催促する。キロネも無言で頷いた。
 その意図に巡礼長が気付き、頭を下げた。
「お引止めして申し訳ない。そちらも急ぐ旅でしょうに」
「すみません。平穏無事に使命を全うされるよう、お祈りしております」
「本当に有難うございました。貴方がたにも、どうか天帝ポルトリテシモの御加護がありますように」
 思わずシャンセは顔を引き攣らせた。「天帝の加護」――祟られそうだ。
 巡礼長に促され、アミュもしぶしぶ無言で頭を下げる。
 シャンセは最後に少女の耳元でこう囁いてみた。
「またね」
 けれども、相手は突き放すように冷たく言い放つ。
「さようなら。私はもう迷いません」
 それを聞いたシャンセはぎくりと気まずそうな表情を浮かべ、後ろで聞いていたキロネとマティアヌスは思わず噴き出してしまった。


   ◇◇◇


 火神は痛々しげにその様子を伺っていた。何だか他人事とは思えなかった。
「あーあー。きっついねえ、貴女の娘は」
「当然の反応でしょ。あの王子様は失言や問題行動が多過ぎよ。これを機会に是非とも反省してもらいたいものだわ」
 シャンセに何か言われたのだろうか。渾神の鼻息は荒い。珍しいことだ。
「……で、さっきの話の続きだけれど、私はあの子にできるだけ長く側にいて欲しいのよ。だから、一旦は身を引くの。今回は顔合わせだけ、問題提起だけしておいて、あの子が他人に押し付けられたからという理由ではなく、自分から渾侍の道を選び取るようにしたいわけ」
「でも、あのアミュって子は拒否したのでしょう。自分から戻ってくるなんてありえないんじゃない?」
「あら、分からない? 地上人の寿命は知能を有する種族の中でも極端に短い。それ故に最も変化の激しい種族でもあるわ。アミュはまだ幼子だから、今は然程欲望が強くない。けれど、この先は? ただでさえ、あの子の村は貧しい。苦しいことや理不尽なことはこれから幾らだって出てくるわ。それに、侍神の肉体を手に入れた自分と他の地上人との違いにも何れ気付くことになる。それらが理解できるくらい大人になったら、あの子は必ず力を望むでしょう。自分と自分を取り巻く世界を守るためにね。きっと渾侍にならなかったことを後悔する日が来るわ。その時に改めて私はあの子を迎えに行くのよ」
「……ふうん」
(でも、そんな風に変わってしまったあの子は、本当に貴女が愛し求めた「アミュ」なのかしら?)
 言いかけて、火神は止めた。言っても無駄だろう。
 やはり、自分もまた他の神々と同様に渾神とは相容れないようだ。
「しかし、どうしてあの子を選んだの? 馴れ初めは何? 接点が全く見当たらないんだけどねえ」
 反応はない。
 思い出に耽るような沈黙の後、渾神は遠くを眺めて答えた。
「それはね、あの子が他の誰にも出来なかった凄いことをしたからよ」
 渾神はそれ以上は語らなかった。
 火神もまた「ふうん」とだけ言って、それ以上は追求しなかった。


   ◇◇◇


 そう、あれは遥か昔。
 アイシア・カンディアーナの〈大祭剣〉に《渾》との接続を経たれ、神力を削られて、それでもやっとの思いで〈封印門〉から抜け出した時のことだった。
「――そと……?」
 眩い昼の光に包まれたその場所は地上のどこか――森の中のようだった。
 ぜいぜいと息を吐く。久方ぶりの外界に狂喜する余力さえも最早なかった。
 砂粒程の大きさにも満たない〈大祭剣〉の破片を傷口から抜き取り、どっと音を立てて倒れ込む。
 瞬時に《渾》が急速に供給されて、思わず噎せ返った。
「で、られた……?」
 呼吸も思考も落ち着きを取り戻すと、渾神ヴァルガヴェリーテは血が滲むほど唇を噛み締めた。
 正直な所、渾神はアイシアを侮っていた。
 数多の《元素》が《塊》から切り分けられた結果、《塊》が変じて生じた《渾》という《元素》。そのようにして塊神から渾神へと転落した自分が、今や嘗てのような完全な存在ではなくなってしまったのだということに討たれる瞬間まで気付かず――。
 不意に笑い声を聞いた気がした。それは〈封印門〉の中から聞いた、幸福な時間を謳歌する人々の声だ。まるで自分を嘲笑うかの様な声音だった。
 目が痛い。涙が出てきそうだ。
《元素》達に置き去りにされ、神力を奪い尽くされながらも、渾神は母のような慈愛でもって数多の《顕現》達に接し続けてきた。時には試練も与えた。
 しかし、どれほど尽くしても人々は眼前の快楽ばかり追い求めて、苦痛を強いる不可解な母神に憎しみの視線を注ぐ。そして、「いなくなれ」と合唱する。
 悔しかった。ただ、ひたすら虚しかった。
 ふと、目の前の古木が目に入る。
 古木には虚があり、中には地上人の赤ん坊が一人寝かされていた。捨て子のようだった。
 赤ん坊は眠ったまま幸せな夢を見て、時折笑っている。渾神にはその様が腹立たしくてならなかった。自分が笑われているように見えたからだ。
「笑ってんじゃないわよ!」
 惨めだった。
 至高の神であった筈の自分が、こんな地上人の赤子風情にまで笑われているのだ。赤ん坊にしてみればただ意思もなく笑っているだけだが、この時の渾神に正常な判断など出来る筈もなかった。
「馬鹿にするな!」
 赤ん坊の顔がアイシアのそれと重なる。渾神は暗く引き攣った笑顔を浮かべた。
「消してやる」
 古木の前まで這い擦り、その首の骨を折ってやろうと手をかけた。
 その時――。
「あ……」
 小さく熱い指が手に掛かった。無垢な嬰児は自分を害する者とも知らず、渾神に優しく微笑みかける。
 その瞬間、必死にしがみ付いていた多くのことが、どうでも良くなった。
 渾神はその温もりを愛し、涙した。


 それから間もなくして、赤ん坊は息を引き取った。蘇生させることも出来たが、そうはしなかった。どうせなら、その人生の初めから丸ごと自分の物にしたいと思ったのだ。
 そうして、渾神は何度転生しても消えることのない名を赤ん坊の魂体に刻み、その魂体に成る丈傷を付けないよう、長い時間を掛けて自分の一部とする〈神術〉を施した。
 それ以後、ずっと見守り続けている。


   ◇◇◇


「ずっと決めていたのよ、貴女を私のものにすることを」
 アミュは誰にも出来なかったことをした。過去の栄光や責任に執着し、停滞を続け、徐々に老いさらばえていくだけであった自分をほんの少しだけ変えたのだ。
「――変化する喜び」
 渾神は笑う。
 声にすることが適わぬ程の狂喜で叫ぶ。


 カミリアアマルタ
(私は貴女を望み焦がれる)
 イントゥア
(それは)

 アルマカミュラ!
(私が貴女のものであるということ!)



 ――薄明かりの神の園 終



2024.01.13 誤字を修正
2023.12.03 一部文言を修正
2021.10.02 サブタイトル変更
2019.09.05 一部文言を修正

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