薄明かりの神の園


 14、夜明け前



 彼は今更ながらに振り返る。
 あの日、あの神宴に渾神が現れてから、自分の口は頑なに対症療法しかないと人々に語り続けてきた。自分自身それしかないのだと思い込んでいた。
 しかし、果たしてその通り、対処療法しかなかったのだろうか。
 否、そんな筈はない。本当は打つ手などいくらでもあったのだ。渾侍と渾神の繋がりを利用して渾神の行方や動向を探ることも、渾侍を速やかに処刑し渾神に天界へ付け入る隙を与えないように手を打つことも、内通者の可能性を疑い神族や天人族、侍神候補者達を調査して処断することも。
 だが、そうしなかった。渾侍を〈封印〉できたことで油断していたからか。下手に突き回して渾神を本気で怒らせることを恐れた為か。
 いいや、違う。
 今だからこそ思う。そのどちらでもなかったのだ、と。
 自分はきっと心の奥底で、自分の作り上げてきたものの全てが壊れてしまうことを望んでいたのだ。そうあることが相応しいと思うが故に。だから、無意識の内に禍の神たる渾神への対処を拒絶してしまった。
 彼女が全てを無茶苦茶に壊してくれることを期待して――。


   ◇◇◇


 長い静寂。
 その後に、地に伏し涙する天帝の背中を撫でた者があった。
 闇神だった。
 蹲る天帝を抱き寄せたて、闇神はふと周囲を見渡した。
 ここは天帝の心の聖域。虚無にも近い純白の世界だ。
 その中心にある〈封印門〉は千年以上の時を経ても未だ朽ち果ててはいない。消えることのない〈神術〉の名残は、まるで天帝の心の傷のようだった。
 嘗て天帝と闇神の運命を決定付けた場所で、二人は再び落ち合った。約束もなく、ぼろぼろになりながら。
「ポルトリテシモ」
 あの時も〈封印門〉の前に蹲り、天帝は泣いていた。
 あの時と違うのは、目の前に横たわる炭と化した死体。
 それと、今はもう跡形も残ってはいない光神の血の川だ。《光》の神はその血液も禍々しく黄金に輝いていた。
「私は簒奪者だ」
 か細い声で天帝は呟いた。


   ◇◇◇


 神戦末期――。
 未だ幻神と呼ばれていたユリスラ神がその地に降り立った時、天神ポルトリテシモは少し普通ではない様子だった。
 彼は亀のように蹲り、何やらぶつぶつと独り言を呟いていた。
「どうしよう……? ああ、どうしたら……」
 天神の足元には金色の川が流れ、白金の〈封印門〉には剣型の〈祭具〉が刺さっていた。
 その〈祭具〉には見覚えがあった。確か、〈大祭剣〉と言ったか。彼の渾神をも倒したという神殺しの〈祭具〉だ。
 それが何を意味するのか、この場に来たばかりの幻神にも理解ができた。
「ポルトリテシモ……!」
「ユリスラ、私は殺してしまった。最も敬愛する神を――父を殺してしまった」
 天神は幻神に詰め寄り、血に濡れた手を見せる。黄金の血液から光が金箔のように幾つも舞った。
「彼は世界に必要な存在なのに、わた、わたしよりもずっと必要で、世界の王で、最上位神なのに……!」
 そして、天神はそんな光神を理想とし、「父」と呼び慕っていた。誰よりも愛していた。妄信していた。だから、天神が光神を害した理由も何となく分かった。父が息子の期待を裏切ったからだ。
 同じく母代わりだった闇神ウリスルドマを亡くしたばかりだとしても、自分とは傷の酷さが違う。
 幻神は天神に慰めてもらいたくて来たのだ。自分が《闇》を継承し闇神になったとしても、仲の良かった二人が対立することには決してならないのだと、いつもの尊大な態度で笑い飛ばして欲しかったのだ。
 けれど、今の天神の姿を見ると言えなかった。
 幻神は崩れ落ちる親友を抱き締めて囁いた。
「仕方ない。彼は間違ったんだ。その狂気と過剰な支配欲で世界を混乱させた。王たる資格なき愚者だ。お前は正しいことをしたんだよ」
「違うんだ、ユリスラ! そうじゃない……!」
 いつもなら虚勢を張ってでも傲慢に見せるその顔を涙でぐしゃぐしゃにして、天神は声を絞り出した。
「ただ、私のことが分からなかったから……。力だけを愛して、捕らわれて、父上が私の名を忘れてしまったから……。ただ、それだけのことが許せなくて、ただそれだけのことで、私は父上を殺してしまったんだ。何と強欲で汚らわしい……私は……!」
 友ですら聞いたことのない自虐的な言葉だ。幻神は呆然とした。
 驚愕の表情を拒絶と取ったのだろう。天神は血が滲むほど幻神の肩を握り締めた。
「行かないでくれ、ユリスラ。お前までいなくならないでくれ!」
 まるで取り繕わない、素のままのポルトリテシモ。自分の知らない彼。
 どう言葉をかけていいのか分からず、ただ強く天神を抱き締めることしか出来ない。
 幻神は心の内で彼をこんな風に変えてしまった者達を恨んだ。光神と渾神に呪いの言葉を吐きかけた。
 唐突に一つ物音がする。
「ポルトリテシモ神、ユリスラ神、これは一体……?」
 シャンセ・ローウェン・ヌッツィーリナ――黒天人族の王太子だ。平時は冷笑的な態度の狡猾な坊やも、この異常な状況の示す真実に気付いて色を失っている。
 幻神は舌打ちをして天神の肩を抱え、外界へ出るよう促す。この場所は天神の精神に強い負担を掛ける。一刻も早く彼をここから連れ出したかった。
 擦れ違いざま、幻神はシャンセへ命じた
「血を洗い流しておけ。それから、分かっているとは思うが――」
 邪神らしい冷酷さを強調するかのように声を潜める。
「このことは内密に。命と死後の道行きの安寧を望むならば、な」
 シャンセの身体がびくりと痙攣した。
 幻神はその背を胸の空く思いで見遣ると、天神を連れ外界へ出た。
 恐らくはこの一件が、後にシャンセを反逆の道へと至らしめることとなったのだろう。


 その後、天神は人々に光神の負傷と隠遁、譲位の意思等を伝え、神族の王の地位に就いた。以降、天帝と名乗るようになる。
 一方、《闇》を継承した幻神も当代闇神と呼ばれ、《闇》側世界の新たな盟主となったのである。


   ◇◇◇


 天帝は独り言のような呟きを繰り返す。
「私は父を殺し、玉座を奪った」
「何故、そう決め付けるんだ。お前が光神を〈封印〉した時、あの方は確かに瀕死の重傷を負っていたのかもしれないが、まだ死んではいなかったのだろう? これだけの時を経ても未だ新たな光神が《顕現》していないことが、あの方がまだ生きているという証だよ。今頃は傷も癒えて向こう側で元気にやっている筈だ。そうして事後承諾ではあるが、王位に就いたお前のこともきっと認めてくれているに違いない。何の反応もないのはその為だ。死んだからじゃない。ただ、こちらからは眠っているように見えるが……」
 気休めだった。
 光神は永獄ではなく〈異層〉という〈神術〉で構成された亜空間に光界ごと〈封印〉された。術者の罪悪感の影響を受けているのか、〈異層〉に開いた道穴は今も尚塞がっておらず、光神が万全の状態ならば力尽くでの脱出が不可能ではない状況だ。しかし、天帝が傷付き〈封印門〉が揺らいでも、光神は外界に対して興味を示すような動きすら見せなかった。光神の気質を考えれば――闇神が天帝を気遣って掛けた言葉とは異なり――自分を裏切った彼のことを酷く恨んでいることが容易に予想できるに。
 要するに、光神は既に死亡している可能性が高いということなのである。
 神の《顕現》に掛かる時間は一定ではない。何時誰が《顕現》するかを知るのは未来予知に関わる一部の神くらいのものだ。だが、彼等は余程のことがない限り未来については語らず、また今の所、次代の光神は見付かっていない。〈星読〉にも表れていない。つまり、光神の実際の生死を知るには〈異層〉の中にいる彼の姿を確認しなければならない訳だが――。
 天帝もやるべきことには気付いているのだ。だからこそ、絶対に〈封印門〉や〈異層〉を解除しない。真実の露見や光神の復讐を恐れているからではない。ただ、現実を受け入れたくないのだ。
 けれども、闇神は天帝を傷付けない為に真実は言わなかった。虚偽をも示す《幻》の本質そのままに。
 「大丈夫。大丈夫だ」
 闇神は優しく天帝の頭を撫でる。天帝は友の胸に顔を埋め、声もなくまた泣いた。


   ◇◇◇


 何も見えない。
 夢の中にいるのだと自覚できた。
(――アミュ、アミュ……)
 どこかで聞こえる懐かしい声。ずっと自分を見つめ、導いてくれていた人だ。
(目を覚まして、アルマカミュラ……)
 そう、あの人は自分のことをそう呼んでいた。
(どういう意味だったっけ……?)
 ふと疑問が湧き、心地良い眠りから意識だけ覚醒させる。瞼は閉じられたままで、視界は未だ暗い闇の中だ。
「創世期の神語で『私は貴方の所有物である』という意味よ。貴女がまだこの世に生まれてくる前に、想いを込めて私が魂体にその真名を刻んだの。だからアミュ、私は貴女のものなのよ」
 声は穏やかにそう語ったが、アミュには意味が良く分からなかった。まだ頭に靄が掛かっているようだ。とても眠い。
 そう言えば、自分はいつから眠っていたのだろう。随分と長い間夢を見ていたような気がするが。
 そうして、アミュは重々しく瞼を開く。
 目前には暁、或いは黄昏を思わす朱色が、時折色味を変えながら鮮やかに靡いていた。その色はアミュの髪の色にも少し似ていた。
(そうか、親子なんだ)
 そう思うと、なんだか胸がほっこり温かくなった。
「貴女が『おかあさん』なのですね」
「そうよ。やっと会えた……」
 渾神は美しく微笑んだ。
「よく頑張ったわね」
「……」
 アミュも渾神に会いたかった。会ってちゃんと自分の意思を言わなければならないと思っていた。
 だが、開こうとする口を渾神は人差し指で制した。
「分かっているわ。お家へ帰りたいのでしょう? 渾侍にもなりたくない、と」
「……はい」
「その意思は変わらないのね?」
「はい」
「そう。きっと、そう言うと思っていたわ。だから、会うのが怖かった」
 その言葉に違和感を感じ、アミュは顔を上げてまじまじと渾神の顔を見た。
 とても寂しそうな、悲しそうな笑顔をしていた。
「帰りなさい」
「え……?」
「帰っても良いわ。とりあえず、今は」
 渾神は、とん、とアミュの身体を押した。
「有難う。……ごめんなさいね。愛しているわ、アミュ」
 押されたアミュは後ろに倒れ、そのまま奈落へと落ちていった。


   ◇◇◇


「そう。光神に瀕死の重症を負わせたのは、先代闇神ではなく天帝であられたの。〈封印〉なさったのも……」
 天帝と闇神の様子を遠巻きに窺っていたシーアは呟いた。
「随分と冷静じゃないか。何とも思わないのか」
 妹の予想外の反応がシャンセには不満だったようだ。潔癖なシーアのことだから、当然自分と同じ感想を持つと思っていたのだ。
 シーアは片眉を上げて、にやりと笑った。
「別に何とも思わないわよ。それを聞いても、やっぱり私はあの方のことが好きだわ。内緒の約束もあるしね」
 切なげな天帝の言葉と表情が蘇る。
 天帝は赦されないことをしたのかもしれない。けれど、それが権力欲の為ではなく情故にというのが、如何にも「らしい」と思った。
 シャンセは一層不愉快そうな顔をしていた。
「約束? 何を企んでいるんだ」
「意地悪王子様には教えてあげない。関係もない。……とりあえず、さっきの質問の答えだけど、答えは『是』よ。私はなるわ、闇侍に」
 突き放すようにわざと清々しい笑顔を作ってみせると、シャンセは何かを言おうと口を開きかけた。
 その時、小さな呻き声が聞こえる。
 その意味するところを察し、二人は移動用〈祭具〉に乗せられた地上人の少女に駆け寄った。
「アミュ」
 名を呼べば、アミュは静かに目を開いた。彼女はシャンセとシーアを交互に見て、涙を浮かべる。
「どうしたの? 身体が辛いのかい? やはり、渾神を身体に降ろしたから……」
「清めの水を持ってくる」
 慌ててシーアが駆け出そうとするのをアミュは手で制止した。
「すみません。違います。違うんです。ただ、私……」
 白い頬を涙が伝う。
「おかあさん――渾神様は私が要らないと……」
「どういうこと?」
「アミュ、何があったか教えてくれるかな。渾神は君に何を言ったんだい?」
「眠ってる間、渾神様と話をしたんです。『渾侍になりたくない。家に帰りたい』って。そしたら、『帰っても良い』って」
 二人は驚いて顔を見合わせた。
「ずっと怖くて……、願いが叶った筈なのに、嬉しい筈なのに。何で、私、涙……」
 胸が痛かった。
 経験はないけれど、これはきっと肉親と死に別れた時の痛みなのだろうと思った。
「他には何も言ってなかった?」
 シャンセがそう尋ねるも、アミュは顔を手で覆い、無言で首を横に振った。
 口元に手を当ててシーアは首を傾げた。
「どういうこと? この子はやっぱり渾侍じゃなく、天界を混乱させる為のただの駒だったってことなの?」
「分からない。どちらとも取れる。駒だったとしても、用済みになったアミュはまだ消されていないし……」
 だが、今この時になって漸く分かったことがある。渾神の標的の一つは恐らくメリルだったのだ。
 侍神選定の時期には様々な《顕現》世界の住人が天界へと集まる。そこで、天帝が側近たる白天人族に害され、天界が揺らいだことを知れば、多くの人々が天帝体制崩壊の未来を予感するだろう。人心はますます天帝から離れていくに違いない。やがて、人々は決して揺らぐことのない、完全で新しい神族の王を求め始めるようになる。
 アミュの使命は恐らく自尊心の強いメリルに揺さぶりを掛けることだったのだろう。
 そうして、渾神の目論見通りに天界が揺らいだ今、アミュはその役目を終えた筈だが――。
「まだ利用価値があるということなのか、或いは渾侍としての最初の仕事が終わったから、今は休みを与えるということなのか」
「『今は』……。確かにそう言っていました」
 シャンセは頷く。
「そうか。ならば、やはり君は渾侍に選ばれてしまったんだ。そして、今は地上界へ帰れたとしても、新しい仕事が発生したら、渾神はまた君を迎えに来るだろう。君の身体は渾神の作った器だから、どこにも逃げられないよ。どうする、アミュ?」
「え?」
「どうって、何よ?」
「君が渾神から逃れる方法は一つしかない」
 取り繕った柔和さがシャンセの顔から消え、瞳は鋭く光った。
「正しく死ぬこと、だ。魂も残さず、綺麗にね」
「『死』……」
 アミュの顔は真っ青になった。かたかたと身体を震わし、シャンセから離れる。そんなアミュの身体をシーアが受け止めた。
「ちょっと、幾ら渾神を恨んでるからって」
「彼女を利用して私を誘き寄せようとしていた君がそれを言うのかい?」
「それは……」
 返答に詰まる。真実だった。言い訳の仕様がない。
 見下ろせばアミュが猜疑心に捕らわれた眼でシーアを見ていた。
「君もそろそろ気付いているんじゃないかな。〈星読〉で見た渾神の行動と実際の彼女の行動にずれが生じていることに。渾神の行動は本来〈星読〉には出ない。理神よりも渾神の神力が強く、且つ謀略に長けた渾神が常に行動の先を読まれないよう妨害をかけているからだ。時たま気まぐれに、或いは意図して未来を読ませることもあるけれど、基本的には渾神が何を企んでいるのかは読めないものなんだよ。でも、その陰謀を少なくとも今回に限っては未然に防ぐ方法が一つだけあるとしたら?」
「それが、アミュを消すことだと?」
「アミュの為でもある。私達と同じ苦しみを味わうよりは……」
「兄上!」
 シーアは殺気立つシャンセの前に立ち、アミュを背中で庇った。確かに彼の言うように自分もアミュを利用しようとはしたが、これとは違う。違う筈だ。
 互いに〈祭具〉を構え、一触即発という時に誰かが深い溜息を吐いた。
「やれやれ、情のないことを仰るものだよ。余り妹御を苛められますな」
 三人が乗ってきた物とは別の移動用〈祭具〉が、音もなく姿を現す。
 操っているのは、天人族らしき気配を纏った男であった。一見しただけでは何処の一族の者か判別が付かないが、名も知らぬ少数民族か、或いは他種族との混血なのかもしれない。
 後部座席には光精の精気を纏った二人の男女が血塗れになって倒れていた。
「初めまして。私はエダス・クレタス。白天人と風精の間に生まれた混血児です。嘗ては第一王女殿下アイシア・カンディアーナ様にお仕えしておりました」
「まあ、アイシア様の?」
 シーアが驚きの声を上げた一方、シャンセはその名を聞いた瞬間から渋い顔をした。
 ――エダス・クレタス。  存在だけはシャンセも知っていた。天人大戦で元凶となったアイシアに連座して、永獄送りになったことも〈星読〉が教えてくれた。
 だが今迄、然程興味は沸かなかった。会うのも今日が初めてだった。
「シーア様、兄君は先程仰いましたよ。アミュ様には渾神に思い知らせてやって欲しいと。それこそがこの方の本心だとは思われませんか?」
「あ……!」
 そうだった。指摘を受けて、シーアは漸く思い出した。シャンセはアミュを『自分の分身』だと言っていたのだ。ならば、殺す筈がないではないか。
 恥ずかしさの余り顔を真っ赤にしてシーアは俯いた。
「意地の悪い兄様だわ」
「どっちも本心だよ。仕返ししてもらいたいとも思うし、殺して良いとも思ってる。しかし、君は一体何時から覗き見ていたんだい? 気持ち悪いな」
「失礼。風精の血が彼方に聞こえる物音さえも、勝手に私の耳に運んでくれるものですから」
「……」
 上手く言い訳するものだ。アイシアはこういう人種を苦手としていたと思うのだが、どうしてエダスを側に置いていたのだろう。
「不思議ですか? どうして、アイシア様が私を側に置いたのか」
 心を読んだかのようにエダスは微笑んだ。
「不愉快なだけだよ。他人の領域にずかずかと土足で入り込んでくるような輩は。《風》の種族の悪い質だ」
「意外ですね。貴方もそういう考え方をなさるのですか。ああ、天界にいた頃は似た様なことをよく言われましたよ。白天人族も同じでした。天人族は基本的に他種族を受け入れない。そんな変わり者は母だけだと思っていました。でも、アイシア様は違いました。あの方が私を側に置いたのは、選民思想の強い白天人族を啓蒙する為だったのだと思います」
「だが、願いは叶わないよ。白天人族は未だにその傲慢な姿勢を変えない。メリルとか言う娘が良い例だろう。君が希望としているアイシアも結局は彼等を変えることが出来ず――」
「ええ、亡くなられました。貴方の所為で」
 エダスの決定的な言葉に息を飲み、シャンセは黙り込んだ。信じたくはなかったが、やはり永獄の中で〈星読〉が示した通り、アイシアは処刑されたらしい。
 空間術においては渾神をも凌ぐアイシアは、永獄に〈封印〉しても脱獄できてしまう可能性が非常に高い。その為、終戦後に責任を追及されたアイシアは自害を迫られ、猛毒の杯を呷って死んだのだという。
「アイシアに対する忠誠心がまだ残っているというのなら、私に復讐したくて堪らなかったのだろうね。何故、会いに来なかったのかい?」
「会えば復讐したくなりますから。でも、そんなことは真面だった頃のアイシア様は望まない筈です。……その代わりと言っては何ですが、一つお願いがあります」
「何だ」
 エダスは薄く笑うと後部座席のキロネとマティアヌスを見た。
 渾神にぼろ雑巾のようにされてはいるが、〈人形殻〉は辛うじて剥がれ落ちてはいない。丈夫な素材だ。シャンセが廃棄物として捨て置いた物と聞いたが、そんな物にすら勝てない自分の技術の未熟さが口惜しかった。
「貴方の旅のお供に彼等を連れて行ってやってほしいのです。貴方のように全ての真実を見ていた訳ではないけれど、光神の失脚に不審感を抱いて天帝に反発し、貶められた者達です。ずっと、外の世界へ出たがっていました」
「引き受ける必要性はまったく感じないのだけどね。でも、君にはアイシアの件で借りがあるようだ」
「彼等もきっと貴方のお役に立つと思いますよ。引き受けて下さるのなら、もうこの地に用はありません。私は早々に永獄に戻らせて頂きます」
「何だって?」
 怪訝な表情でシャンセはエダスを見る。キロネとマティアヌスを降ろし、振り返ったその笑顔はさっぱりとしていて、まるでこの世に未練がないかのようだった。
 シャンセの心中を察し、エダスはこう言い残して去っていった。
「命が掛かっていたアミュ様はともかく、貴方にしても彼等にしてもね、『出たい、出たい』と仰っていましたけれど、私にはその心中がまったく理解できないのですよ。外は混沌とし、理不尽に満ちている。不幸が幸福に、幸福が不幸にと目まぐるしく変わっていく。そんな世界です。それに比べて永獄は穏やかだったでしょう。特に貴方が天地を創造されてからは、衣食住や娯楽も充実し、罪人に不釣合いなくらい不幸なんてものは殆ど無くなってしまいました。なのに、どうして外に出たいなんて思うんです。変化が欲しいからですか。それは貴方達が憎んでやまない渾神と、一体何処がどう違うというのでしょうね」


   ◇◇◇


 エダスが永獄へと戻り、シャンセもアミュと光精二人を連れて去った後、シーアは浮き立つ心を静め、改めて決意したように顔を上げた。
 静かに、そしてゆっくりと〈封印門〉の前で話をしている二柱の神へ歩み寄っていく。
 すぐ背後に立つと流石に気配で気付いて、天帝と闇神は振り返った。
「闇神様」
 しかしその後、シーアは随分と長い時間、無言で闇神を見つめていた。
「何だ?」
 沈黙の長さを訝しく思い、闇神から声を掛ける。
 すると、シーアは漸く口を開いた。
「闇神様、世界はやがて渾神の策謀によって混沌へと落ちていくでしょう。ですから、私は私が出来る限りのことをしようと決めたのです」
「シーア?」
 今迄とは異なった空気を纏うシーアに気圧されている闇神の傍らで、天帝は穏やかにその様子を見守っていた。



2024.03.05 一部文言を修正
2024.03.04 一部文言を修正
2021.10.02 サブタイトル変更

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