聖女の涙


 06



 その夜は、怪談話で語られるような季節外れの生暖かさが不快に肌を舐める夜だった。これから非現実じみた何かが起こるのではないかと思わせる澱んだ空気である。
 しかし、外気の様子に反して聖女堂の中は肌寒い。しんと静まり返った聖女堂の長椅子に座っていた法士は、堂内の冷気を場に相応しい清浄なものだと感じていた。眼前に佇む聖女像の気配を表した様な空気だと。
 法士は熱を帯びた眼差しを聖女像の面に向けた。
「まるで恋人でもご覧になっているよう」
 法士の背後から彼の信仰心を揶揄するように、そう声を掛ける者がいた。彼は眉を顰めて振り返った。
「魔女殿か」
「聖女の涙」の警護任務を口実に法術徒の園に入り込んだ異教の女。魔の使い。聖女の足元に侍るには全く相応しくない、その女。
 最初に魔術師に仕事を依頼するという話を聞いた時、彼は教会長の正気を疑った。それはまるで悪魔契約ではないかと。そんなことをしなくても、聖女様には神の御加護がある。自分だっている。なのに――。
「マリオン法士、で宜しかったかしら? 警護担当の方は? 交代の時間なのですけれど」
「今の時間は私の担当ですよ。本来の担当の者は別におりましたが、風邪で寝込んでしまってね。私が替わってやったんです」
 すると、魔女は何故か一瞬眉間に皺を寄らせた。
「そう、ですか……」
 呟きの後に彼女も顔を上げ、聖女像を見る。正確には聖女像の持つ杖の頭に嵌っている「聖女の涙」を見ていた。聖女の御尊顔よりも金銭的に価値のありそうな宝石に目がいくとはつくづく強欲な魔女である。
 険悪な視線を向けるマリオンに対し、魔女エリスはくすりと笑って返した。
「不思議ですわね。聖女堂を有しているのに、こちらの教会には尼僧の方が一人もいらっしゃらないと伺いました。リズドア公の呪いが原因という話ですが」
 マリオンはあからさまに表情を歪めた。エリスの言は疑いようのない聖女デーメテーラに対する侮辱である。「リズドア公がデーメテーラを逆恨みして彼女が庇護する尼僧達に呪いをかけた」という噂は、確かにマリオンも聞いたことがあった。無論彼は全く信じてはいないが、信仰対象が「曰く付きの聖女」と貶められて気分が良い筈がなかった。
「何と無礼な! そう言えば、先程『恋人』がどうとか言っておりましたな。何を勘繰っているのかは知りませんが、私は真実聖女様を敬愛しているのです。その身の内に邪心を抱えた異教の魔女に、我々法術徒の篤い信仰心は理解できないのでしょうがね」
 魔女はそこで「ふふ」と短く声を上げて笑い、続いて首を横に振った。
「法士様、何時から教会は嘘偽りを奨励するようになったのです?」
「嘘?」
「法術は魔術の動力となる魔力を消し去る。リズドア教会は大教院級の施設とは違い法術結界に守護されていない小教会ですが、だからと言って、こうも高濃度の魔力が大量に発生するものかと気になりましてね」
「それは魔術師がうろついているからではありませんか? 貴女や、強盗未遂事件の黒幕も魔術師の可能性があるのでしょう?」
「ふっ、期待通りの返答ですね。でも、残念ながらそれは違います」
 怪訝な表情を浮かべてマリオンはエリスを見た。一方、エリスの方は相変わらず「聖女の涙」を見詰めたままだ。
「『聖女の涙』について少し調べさせてもらいました。リズドア公討伐譚の続き――『魔女デーメテーラ』について」
「何ですって?」
 マリオンの頭の中が真っ赤に染まる。余りの出来事に言葉が出ない。何という侮辱、何という暴挙。聖女を「魔女」と呼んで罵るとは。
 しかしながら、マリオンはエリスの次の言葉を待つ。聞き入ってしまう。それが魔女の誘いの言葉と知りながら。
「この教会や法術徒達から得た資料ばかり見ていても、意味などなかったのですよ。当たり前のことですが、記述者というのは自分達にとって都合の良いようにしか書き記さない人々ですからね。だから私、魔術側の情報屋に依頼して、魔術側世界における当時の記録を探してもらいましたの。法術側とは異なった視点で書かれた資料をね。そしたら、拍子抜けするくらいあっさりと事件の裏側が分かってしまいましたよ。……資料の概要はこうです」

 ――暴虐の限りを尽くしたリズドア公。彼が討たれて領主による直接的な迫害は無くなったものの、彼が黒幕であると思われていた強盗や失踪等の事件は一向に治まる気配を見せず、領内に平穏が訪れることはなかった。
 奇妙に思った聖ハイエルは事後処理の傍ら、内々に調査を開始する。やがて、リズドア公の妹であり領主代理として兄亡き後の領地を治めていたデーメテーラこそが、これらの事件の首謀者であることを突き止めた。また、リズドア公が生前犯したとされる悪行も、実際にはデーメテーラがリズドア公を魔術で洗脳して行わせたものだったと判明した。
 聖ハイエルはデーメテーラを処刑するべく戦いを挑むが、驚いたことに彼女は不死の魔女であった。止む無く彼はデーメテーラを領主の椅子に嵌っていた宝石に封じ込め、オーヴィリア大教院の法術結界の中に置いたのだという。

「この宝石が、現代において聖石『聖女の涙』と呼ばれている遺物です」
「聖女の涙」は実際には宝石ではなく法術具だったので、やや正確さに欠ける情報ではあるが、一つの可能性を提示するものでもある。それは、聖法庁が正式に聖女と認定したデーメテーラの方が実は巡礼者や領民を苦しめた魔女であり、逆に異端者として処刑したリズドア公は哀れな犠牲者の一人に過ぎなかった可能性だ。聖法庁にとっては非常に都合が悪く、それ故に法術側世界では正しい記録が残されず、領民達にも真実は伝えられなかった。
 そして、この過去の汚点と聖法庁が歴史を改竄した事実こそが、史書の管理を担う職付きの司書官であり、こうした記録書類を編纂する部署とも繋がりの深いクロエが、エリスに対して何より隠したがっていたものだったのだろう。
「ところで、本物の『聖女の涙』は半年前オーヴィリア大教院から盗まれてしまったのだそうですよ。不思議ですね。何故、失われた筈の『聖女の涙』がこの教会にあるのでしょう? あそこにある石は、元々リズドア教会で保管されていた模造品ではなく本物の方ですよね」


   ◇◇◇


 ほぼ同時刻、アリアスはリズドア教会の敷地内に隠されていた地下回廊に居た。
 その入口は教会本堂の中にあった。左右の壁面に沿うように並べられていた燭台の中に、一台だけ他の物よりもくすんだ色の物が混ざっているのを発見したのだ。過去に似たような仕掛けを幾度となく見てきたアリエスは、試しにその燭台の軸を握って持ち上げてみた。すると彼女の予想通りに、燭台の底にぴったりと貼り付いた敷石が音を立てて床から抜け、元々敷石が埋まっていた場所の下から鈍色の取手の付いた木製の扉が現れたのである。
 扉の向こう側に隠れていた地下回廊は、複雑に曲がりくねってはいるものの、分岐の全くない一本道であった。道すがら扉が幾つかあったので警戒しつつ開けていったが、何れも内部は無人で空き箱や布の破片の様な物が散在しているだけだった。
 しかしある部屋を調べた時のこと、扉については他と違った様子は見られなかったが、開けた瞬間に室内から流れてきた空気の臭いや湿度が今迄とは少々異なっている様に感じたのだ。ここには何かがある。冒険家としての勘がそう訴えていた。
 アリアスはごくりと喉を慣らし、手に持っていた照明を室内に向けた。やがて、大きく口を開いた。
(うわっ! うわーっ!)
 思わず心の中で叫ぶ。悲鳴が声にならなかった。
 原因は薄暗い部屋の中に大量に積まれた木箱と袋である。中には貨幣や金目の品がぎっしりと詰め込まれていた。詰め切れずに中から零れ出してしまう程の量だった。だが、アリアスの動揺は財宝を見つけた時の感動から来るものではない。冒険者の彼女はこの程度の発見には慣れ切っている。今回の発見と通常とで異なる所は、眼前にある財宝が文化財の類ではなく、明らかに現代に製造された品である点だ。彼女にはこの財宝の出所に心当たりがあった。半年前からリズドア教会周辺で多発している強盗事件の盗品である。
 ならばエリスの予測通り、行方不明の人々も地下回廊の何処かに居る可能性がある。既に死体となっているかもしれないが。
(それにしても――)
 アリアスは今迄よりも広めに造られているその部屋の中へ入り、布や革の袋が詰め込まれた木箱の前で膝を突いた。丸々と膨れ上がった袋の一つを引き抜くと、じゃらっという音が鳴る。袋の口を絞めていた紐を解いて覗き見ると、中には銀貨と銅貨が大量に収まっていた。幾ら掻き回しても金貨は出てこなかったので、彼女は残念な気分になった。片田舎で集められる物はこの程度が関の山なのだろうが、もしこれらが全て金貨であったなら、自分のみならず「守銭奴エリス」も大層喜んだに違いない。
(今回の仕事を引き受けた真の目的はこれか? まさかな……)
 初めから地下の財宝のことまで推測して依頼を受けたのだとしたら、恐ろしいまでの嗅覚である。正に金の亡者。アリアスは思わず冷や汗を流した。
 その直後、彼女は背後で魔力が急速に膨張していくのを感じ取る。直ぐ様護身用に持っていた短剣を構えて、アリアスは振り返った。



2023.05.06 旧05を分割し一部を新06へ移動、全体の文言修正

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