聖女の涙


 07



「勘違いをしないで頂きたい。デーメテーラ様は魔女ではないし、私は盗んだのではない。『お連れした』のだ。故郷より離されて寂しいと嘆いておられたので、此方へお連れ申し上げたのだ」
 マリオンは熱の籠った声で語った。
「『嘆いておられた』?」
「そう、私は奇跡を見たのです。聖女復活の奇跡を!」
「世迷言を――」
 言葉を返そうとした瞬間、エリスもまたアリアスと同様に魔力の異常を感知した。
(――何?)
 否、答えは分かっていた。魔術が使用されたのだ。その事実に気付いた時には、どおんという轟音が響き渡り、前方の床が陥没していた。床に空いた大穴からは地下室らしき部屋が丸見えになっている。そこから煤だらけになったアリアスが飛び出してきた。土煙の所為か、酷く噎せ込んでいた。
「アリアス!」
 エリスは思わず駆け寄る。だが、息を整えたアリアスはそんな相手を睨み付けた。
「エリス、あんた……聞いてないわよ、あんなの!」
 一方のマリオンは、突然襲い掛かった災厄にも動揺している様子はなく、恍惚とした表情で全く別の方向へと熱い視線を送っていた。
「おお……聖女様! なんと、お美しい……」
 感嘆の息を漏らすマリオンの視線の先を見ると、そこにはエリスにとっても見覚えのある姿があった。
「エリスさん、貴女が悪いのよ。ちゃんと警告してあげたのに余計な詮索を続けるから、私は貴女を排除しなくてはならなくなった」
 鈴を転がしたような可愛らしい声でそう言って退けたのは、エリスが初めてリズドア教会の資料室を訪れた際に出会った尼僧服の少女であった。ただし、今日は尼僧服を身に着けてはいない。「聖女の涙」と同じ色をした古風な意匠の衣服を纏い、髪や胸元を金製品で飾っている。その姿は古い絵画に描かれた貴婦人に似ていた。
「『不死の魔女デーメテーラ』――貴女がそうなのね」
 エリスの問い掛けに、少女はにこりと微笑んで返した。大凡の真実を知った今からすれば、彼女の面差しは何処か聖デーメテーラの姿を模した聖女像と似ている様に思える。実際、少女自身がその様に名乗ってもいた。あの時の言葉に嘘偽りはなかったということだ。
 正体を見破られたデーメテーラは、しかしながら余裕に満ちた表情で謳うように語り始めた。
「そう言えば、『双子小説』に出てくる大魔女ステラーも、貴女と同じで空色の瞳に金色の長髪を棚引かせた美しい妙齢の女性だったわね。主人公の育ての親で初恋の人だったのだけれど、敵の将軍に無残にも八つ裂きにされて、死体を晒されて……。あの場面は物語では必要な過程であったのかもしれないけど、彼女のような魅力的な人間が失われるのは悲しむべきことだわ」
「何が言いたいの?」
 可憐な見た目にそぐわず、脅迫の意図を匂わせる相手をエリスは睨み付けた。だが、少女は動じない。慣れているのだ。過去にエリスと同じ表情を向けた人間は山程居たのだろう。
「ねえ、エリスさん。どうかしら、私の仲間にならない?」
「遠慮させてもらうわ」
 エリスは相手の要求を即座に突き放した。少しの間、沈黙が落ちた。
 やがて、デーメテーラは残念そうに笑って俯いた。
「そう、貴女にはもっと賢い人であってほしかったのだけれど」
「……!」
 エリスは、はっとして背後に意識を向けた。彼女が背にしていた聖女像の周辺では、魔力が渦の様な流れを作っている。同時に、耳鳴りのような音が彼女の頭の中に響いた。
「エリス?」
 アリアスは目を見開いたまま突如として彫像のように動かなくなったエリスを不安げに見上げた。
 そんな二人の様子を暫く眺めた後、デーメテーラは深々と溜息を吐いた。
「本当はね、私もこんなことはしたくなかったのよ。まあ、本心を言えば『一緒に居てくれないかな』とは思ったけど」
 デーメテーラはエリスに向かって歩き始める。底の硬い靴を履いているのだろう。こつこつという音がよく響いた。
「何をしろとは言わないわ。ただ一緒に居てくれるだけで一緒にいてくれるだけで良かったの。だって、貴女は似ているもの。憂いを帯びた瞳、聡明さを湛えた面立ちも、誰より似てる。私を裏切ったあの兄に……!」
 裾を摘まみ上げ、ふわりと大穴を越える。風に舞い上げられた花がゆっくりと落ちていく様に似たその動きは、彼女がやはり普通の人間とは違うのだということを示していた。
「もう二度と失いはしないわ……」
 息が掛かるくらいの距離まで近付いたデーメテーラは、両腕を大きく広げてエリスを抱きしめようとした。アリアスはデーメテーラが傍らを通り過ぎるのをただ呆然と見送ってしまっていたが、この時になって漸く正気に戻り、「エリス!」と叫んで攻撃魔法を構築し始めた。
 しかし、次の瞬間――。
「やっぱりね。そういうこと」
 突如動き出したエリスは、デーメテーラの肩を掴んで自分から引き離した。洗脳を受けている筈の彼女の瞳には、どういう訳だかしっかりと意志を宿した光が宿っている。驚いたデーメテーラは、愛らしい相貌を歪めて素早く後ろに飛び退く。その後にエリスの顔を睨み付けた。一方、エリスの無事な様子を確認したアリアスは、ほっと安堵の息を吐いた。
「どうして正気で?」
 デーメテーラが尋ねる。すると、エリスは懐から乳白色の球体を取り出した。水晶玉に似た球体の表面は少しだけ透けており、中心部には金属製の装置が入っている。それがわんわんと周期的に微弱な音波を放出していた。
「この石はね、元々全ての能力の法術を妨害波を出して相殺してくれる魔導具だったの。でも、汎用性がある代わりに効果範囲や威力面が少し不安でね。ほら、法術具が発動する法術って法術師が構成するものと比べて桁違いの威力を発揮するものが時々あるじゃない。『聖女の涙』の力がどの程度か分からなかったから、対精神操作系特化型に再調整して、威力と効果範囲を強化してみたのよ。本当に、用意しておいて良かったわ」
 因みに、基になっているのは以前ヴィンリンスの精神操作系法術を破った魔導具だ。実際に発動させてみれば、やはり「聖女の涙」の方がヴィンリンスの法術よりもやや威力が高かった様だ。
「やはりそこまで知ってしまっているのね」
「ええ。魔力に侵食され過ぎていて気付き難かったけど、ちゃんとした機材を持ち込んで調べてみれば直に分かったわ。『聖女の涙』は精神に干渉する法術具だってね。この能力を生かし、リズドア教会への転勤が決まっていたマリオン法士を操って『聖女の涙』を盗み出させたのね」
 デーメテーラは俯いたまま返事をしなかった。動揺しているような素振りをしている。エリスの推測が正しければ、彼女に人間らしい感情などある筈がないのだから、恐らくはそう見えるというだけなのだろうが。
「更に言えば、『聖女の涙』を盗み出す以前から、マリオン法士はオーヴィリア大教院の幹部の身内であることを笠に着て、色々とやらかしていたらしいわね。そうして、とうとう頼みの綱である伯父にも見放され、近隣のリズドア教会への軟禁――もとい左遷が決まってしまったと。でも、ひょっとしてその時点で既に彼は貴女の術中にあったのかしら? ともあれ、貴女は何かしらの理由があって自分は――『聖女の涙』はリズドア公の居城跡であるリズドア教会にこそ存在していなければならないと考えていた」
 エリスは聖女像の持つ杖に嵌っている「聖女の涙」を見上げた。魔力の渦は既に消失していたが、魔力濃度の高さは相変わらずだ。やはり、故障箇所を直さないことには根本的な解決には至らないのだろう。エリスはデーメテーラへと向き直った。
「だから、法術具『聖女の涙』の精神操作能力を使ってマリオン法士を操り、オーヴィリア大教院から本物の『聖女の涙』を盗み出させ、転勤先であるリズドア教会にあった模造品と摩り替えさせた。身内の犯行がオーヴィリア大教院にとって汚点となり、彼等が盗難事件の隠蔽という方向に動くであろうことも、初めから計算の内だったのね。尤もかなり早い段階から『聖女の涙』盗難事件とその犯人が聖法庁にばれて、貴女の目論見は脆くも崩れ去ってしまったみたいだけど」
 そこで一旦話を切り、相手の反応を伺う。俯いたデーメテーラの目は前髪で隠れており、表情から彼女の思考を読み取ることは出来なかった。エリスは心の中で舌打ちをした。
「半年前から教会付近で多発している強盗事件も貴女の仕業? まるで、リズドア公の暴政の再現ね。近隣住民から資金を吸い上げて、一体何をするつもり?」
「……」
 デーメテーラは答えなかった。ただ、暫く振りにすっと顔を上げる。今迄彼女が見せた中で一番冷たい、宝石の様に無機質な表情だった。
 その時だ。彼女の背後から先程割られた床材の破片が投げ付けられ、エリスの足下に当たって高く跳ねた。両者は共に破片が飛んできた方へ振り向いた。
「先程から聞いていれば、身の程知らずが世迷言で聖女様を貶めて……。早く聖女様から離れろ、忌まわしい魔女め!」
 マリオンであった。
「……貴方――」
 破片は誰にも当たらずに終わったが、会話に水を差されたデーメテーラは不快感を露わにした。
「邪魔よ!」
 声を低めてデーメテーラは死刑宣告を行い、両手を正面で組み合わせる。すると、聖女堂に充満していた魔力が彼女の掌の前へと集まり、渦のような風の流れを起こした。渦はやがて黒い球体を形成し、デーメテーラが両腕を広げる動きに合わせて肥大化する。それは紛れもなく魔術であった。彼女と結び付きの深い「聖女の涙」は法術具であるが、彼女自身はどうやら法術だけではなく魔術の心得もあった様だ。
 マリオンは青褪める。崇拝する聖女様が今正に自分の命を奪おうとしているからではない。デーメテーラの背後にいるエリスの動きに気付いたからだ。
「聖女様、いけない!」
 エリスは魔導具の出力を上げて「聖女の涙」の法術を完全に無力化する。マリオンが叫んだ時には、既に手遅れであった。
 数秒後、妨害波の衝撃に耐えられなかったのだろう、「聖女の涙」の外装の中心に大きな亀裂が入る。損傷は内部で稼働していた装置にも発生しており、法術具「聖女の涙」は活動を停止した。同時にデーメテーラの身体が徐々に透けていった。
「消える。わたし、きえてし、ま、う……」
 驚きの表情を浮かべた彼女が浜辺に作られた砂の城の様に儚く崩れ去る瞬間、「聖女の涙」の亀裂から薄紫色の液体が一筋零れ落ちた。内部の装置に使用されていた油か何かだろうが、それを見たエリスはこう、ぽつりと呟いた。
「まるで『涙』ね」
 エリスらしからぬ感傷的な言葉であった。だが、次の瞬間には現実に引き戻される。
(しまった、壊した! どう言い訳しよう)
 一目で壊れたと分かる「聖女の涙」、聖女堂の床に空いた大穴。修復系魔術を使用しても全てを元通りにするには数日掛かるし、幻術系魔術はヴィンリンスや大教院の騎士が来れば一発でばれる。隠蔽は難しい。かと言って正直に真実を話せば、今度は「聖デーメテーラの秘密」を知ってしまったことがばれて口封じに消されかねない。いっそ無難に「地下回廊に潜伏していた魔術師の攻撃を受けた」とでも言っておこうか。あながち間違いでもないのだから。
「エリス」
 傍らに立つアリアスが声を掛ける。ぼんやりと様子を見守っているだけで何の役にも立たなかった彼女は、デーメテーラが消えた場所を眺め、首を傾げていた。
「何をしたの?」
 エリスもまた首を傾げたが、やがて「ああ」と納得した様な声を漏らした。
「そう言えば、あんたにはまだちゃんと全部は話してなかったっけ」
「何をよ」
「『聖女の涙』の仕様とデーメテーラの正体について。今のは魔導具を使って『聖女の涙』の法術を無効化したのよ。壊れたのは偶々だけど。さっきの女――デーメテーラは『聖女の涙』が生み出した幻影だから、『聖女の涙』が法術を発動できなくなったことにより消滅したのね。何で幻影が魔術を使えるのかについての説明は、ややこしくなりそうだから今は割愛するけども」
「『幻影』? でも、『聖女の涙』は精神に干渉する法術具でしょ? 視覚操作の幻術系とは――」
「だから、精神に干渉することで幻覚を見せていたのよ」
「んん?」
 アリアスは困惑した。何かが引っかかる。
「でも――」
「まあ、とにかく後でちゃんと話すから、今は――」
 面倒臭そうにエリスがアリアスをあしらった時である。獣のような唸り声が響いた。声の主はマリオンであった。
「おのれ……おのれえっ!」
 マリオンは懐に潜ませていた護身用の短剣を抜き、大切な彼の聖女様を殺したエリスに向かっていった。聖職者にあるまじき振舞いである。エリスは思わず苦笑した。これだから、法術徒という生き物は。
「往生際の悪いこと」
 奇声を上げながら突進してくるマリオンが、エリスの許へ辿り着く前にアリアスがすっと前に出る。彼女は前方へ手を翳し魔法を発動させた。魔力を帯びた突風により背後へ吹き飛んだマリオンは、木製の長椅子で背中を強く打ち、短く呻いて意識を失った。
「やれやれだわ」
 短い溜息を吐いた後、エリスは人を呼ぶ為に大穴や瓦礫を避けつつ入口へ向かった。だが、アリアスは彼女に追従せずマリオンの方を見て思索に耽る。

 ――教会の壁の方は全部調べ終わったけど、おかしな空間とかは無かったわ。空間系法術や魔術が使用されていた形跡はなし。でも、幻術系は反応あり。
 ――幻術系? ヴィンリンスかしら。

 以前、エリスに調査報告をした時の会話だ。
(「聖女の涙」が精神操作系の法術具なら、結局あれってやっぱりヴィンリンスが「聖女の涙」とは別の法術具を使ってた所為ってことだよね。ヴィンリンス自身は精神操作の法術師だし、この教会には他に法術具を使える人間は居ないみたいだし。何やってたんだ、あいつ?)
 疑問に対する明確な答えは浮かばない。アリアスは低く唸った後、一先ず気持ちを切り替えてマリオンの監視と存在するかもしれない彼の仲間の襲撃対策に集中することにした。そうして全ての仕事が終わった頃には、この時沸き上がった疑問はすっかり忘れ去っていた。
 そういった一連の動きを聖女像の影から息を潜めて見詰めている少女が居た。彼女は人間の視覚を操る幻術系法術の使い手で、エリスがリズドア教会を訪れる少し前から法術によって身を隠し、今迄誰に知られることもなく滞在し続けていた。目的はエリスを観察。「監視」ではなく「観察」である。それが彼女に与えられた任務だった。
 アリアスの疑問――彼女が発見した幻術系法術の痕跡は、実はヴィンリンスによるものではなくこの少女のものだったのだ。
 また、彼女は法術師であると同時に、聖法庁に勤める尼僧でもあった。所属部署は教理保護局。俗に「異端審問所」とも呼ばれ、法術徒内の異端者の調査から処分までを担当する部署である。また、彼等は身内の異端者のみならず、法術徒にとっての異端者――即ち魔術側世界の人間を排除する仕事を行うこともあった。
 そんな汚れ仕事を幾度となく熟してきた少女は、腕の立つ冒険者であるアリアスにも決して気配を悟らせなかった。彼女はエリスが聖女堂に初めて遣って来た時と同様、物言わず冷ややかな視線を送り続けた。



2023.05.13 旧05を分割し一部を新07へ移動、全体の文言修正

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