聖女の涙


 05



 翌日、エリスは再び資料室を訪れた。クロエ達の証言や資料に誤魔化されて見落としていた部分が、この部屋の何処かに隠れているような気がしたからだ。表面に施された塗装がやや薄くなった木製の扉を開くと、噎せ返る程の本の香りが静かに彼女を出迎えてくれた。
 周囲を見回しながら資料室の奥まで進み、前回は目を通さなかった資料を取り出して机の上に広げる。それを何度も繰り返した後、開いた本を見下ろしながら暫く唸っていると、背後から資料室の管理を任されている司書官が声を掛けてきた。
「おや、熱心ですね」
 エリスは申し訳なさそうな表情で返す。
「すみません。また、お邪魔しています」
「いいえ、構いませんよ。教会関係者でも最近はこの場所を訪れる人が少なかったものですから、ちょうど人恋しく感じていた所です。それに、資料の埃を払って下さっていると思えば大助かりですよ。どうぞ何時でもいらっしゃって下さい。ところで、これは……リズドア公に関する資料ですか?」
「ええ、そうです。……ああ、司書官にお聞きしたいことが」
「何でしょう?」
「先程教会長にも改めて伺ったのですが、『聖女の涙』について何かご存知ではありませんか? 出来れば伝承や噂の様なものではなく、より正確な記録を見たかったのですが、こちらの資料室にはリズドア公や聖デーメテーラに関する資料はあっても、『聖女の涙』に関する物はないようで……」
 すると、司書官は訝しげな顔をして問い返した。
「それは一体……どういった理由で聞いていらっしゃるのでしょうか?」
「いえ、それをここで言ってしまって良いものか……。一応、教会長にはお話してありますけれども」
 司書官に問われてエリスの頭を一瞬過ぎった「理由」――方便は、以前教会長にも語った「『聖女の涙』の正体を知ることでこれを狙う敵に対し有効な対策が立てられる」、「オーヴィリア大教院に警護要員の増強や『聖女の涙』保護への説得材料を作ることが出来る」といったものであった。つまりは、内容の真偽は兎も角として一応返答することは可能だったのだが、教会の警護任務とは直接関係のない彼に果たしてその情報を教えてしまって良いのだろうか、という所で躊躇していた。言うまでもなく、秘密が漏れると危ない仕事なのである。
 司書官も彼女の憂慮を直に察した様だった。
「ううん、確かに『聖女の涙』について知っていることはありますが、私から言って良い話なのかは判断しかねますね。ですが、私が知っていることは大概教会長もご存知の筈ですので、先に彼方を訪ねられたのであれば、私からお話し出来ることはないと思いますよ。ああ、それと申し訳ありませんが、当資料室には『聖女の涙』に関する書物は置いておりません。過去にオーヴィリア大教院や聖法庁が全て回収したと聞いております」
「理由をお聞きしても?」
「さあ、私には……」
 司書官は語尾を濁して苦笑する。本当に何も知らないのか、それとも実は何か重要な事実を知っていて隠しているのか、その表情からは読み取ることが出来なかった。ただ、少し困っているといった内心は窺い知れた。
(まあ、仮に何か知っていたとしても、異教の魔術師相手には流石に言えないか。それがこの教会にとって重要な秘密であれば尚のこと)
 聞きたいことは他にもあったが、エリスは思い止まって「そうですか」と返した。柔和そうな見た目や物腰に反して、彼は意外にも口が堅い男性の様だ。暴力無しでこれ以上の情報を絞り出すことは難しいかもしれない。故に、一先ず非礼を詫びることにした。
「不躾な質問をして申し訳ありません。お声掛け下さり有難うございます」
「いいえ、とんでもない。こちらこそ、お力になれず申し訳ございません」
 逃げる様に立ち去ろうとする司書官の背中を見て、エリスはふと、あることを思い出し彼を呼び止めた。
「すみません、司書官。もう一つだけ、お聞きしたいことを思い出したので。先日資料室で尼僧の方とお話をさせてもらったのですが、彼女はよく此方に来られるのですか? この教会で尼僧の姿を他にお見掛けしなかったものですから、珍しいと思いまして」
「尼僧? いいえ、リズドア教会に尼僧はおりませんよ。確かに資料室内で話されたのですか?」
「ええ、確かに」
 司書官はさっと顔色を変えた。
「まさかとは思いますが、それは――」
「今回の事件の犯人である可能性がありますね。そうでなくとも、不審者には違いないでしょう。後で教会長に伝えておきます」
「お願いします。私も気を付けて見ておきますので」
 神妙な面持ちで司書官は頭を下げた。良心的な振る舞いを無理なく見せる彼は、法術徒の教えにある理想的な信徒そのものだ。ヴィンリンスには是非とも見習わせたいものである。
「それにしても、聖女堂のある教会に尼僧が居ないのは珍しいですね。何か言われでもあるのですか?」
「創建当初は何人か居たと聞いております。しかし、尼僧ばかりが次々に変死する事件が起こって、『リズドア公の呪い』という噂まで出たものですから、この教会には配置されなくなったのですよ。不思議なことに男性の法士には何も起こらなかったそうですから、男だけなら大丈夫だろうと」
「なるほど……」
 初めて聞く情報にエリスは意外さを感じた。「まだ、そんな重大事件を知らなかったのか」と。
 だが、よくよく考えてみると「聖女の涙」に直接関係がないと判断した内容は、目には入っても頭の中に残さなかったような気がする。恐らく手間を省く為、無意識にしたことなのだろうが、この「関係ない」という思い込みは調査活動を行う上で非常に危険だ。修行時代には世界屈指の大図書館に数日泊り込んだこともある程、本に慣れ親しんだ彼女らしからぬ失態である。
 司書官が持ち場へ戻り筆記作業を始めたのを見届けると、エリスは慌てて確認済みの資料や背表紙に書かれた題名だけ見て自分が無関係と判断しそうな書籍を集めた。時折指でなぞりながら、食い入るように黙読する。
(リズドア教会が創建されたのは聖デーメテーラの死後。彼女の偉業を讃えて……んん?)
 違和感を覚えたのは、リズドア教会創立時の記録を再び紐解いた時だった。
(聖デーメテーラの没年はリズドア公が討伐された年の二年後。死亡理由は病死だが、病名の記載はない。死病に侵されていたなら、実際に活動出来た期間は長くても一年数ヶ月という所か。兄の死後、領主代理に就いたデーメテーラが偉業と呼ばれる程の治世を行うには余りに短い。なら、彼女の偉業とはリズドア公討伐に加担したという一点に絞られる。……否)
 再度、聖デーメテーラ関連の資料を探す。それらを読み返した後、頭の中でクロエが送った資料の内容を並べる。
 全ての作業を終えた後、エリスは天を仰ぎ深呼吸した。
(そもそも、教会の資料にもクロエが寄越した資料にも、デーメテーラがどんな統治を行ったかという記述が全くない……?)
 しかもクロエが寄越した資料については、記載の仕方や選択された内容から、読んだ者が聖デーメテーラに興味を抱かないよう誘導する意図が感じられた。そして、その細工を巧妙に隠している風にも――。
「やられた……」
 エリスは深々と溜息を吐いた
「嫌な感じね、何か」
 黒い感情が体内に広がっていく。机上の本の表紙に描かれた法術徒に纏わる物と思わしき紋章を彼女は苦々しい表情で睨んだ。


   ◇◇◇


 数日後の夕刻、アリアスは経過報告の為にエリスをリズドア教会内で探していた。しかし何処にも見当たらず、彼女が異空間の自室に戻っていることに気付いてその場所を尋ねる。目的の相手は期待通りに見付かってくれたが、彼女の様子を見てアリアスは思わず「あれ?」と声を上げた。
 エリスの正面には長方形の画面が複数枚散らばって表示されており、内一つは通信用であった。更に言うなら、文書送信済みの確認画面の様である。宛先は普段彼女が余り連絡を取りたがらない人物だった。
「情報屋を使うの? 結構お金掛かるけど……」
 通信相手は魔術側世界では知る人ぞ知る情報屋だ。こういった手合いは大抵高額の情報料を取るものである。エリスに払えない額ではないだろうが、果たして今回の仕事で獲得できる報酬との釣り合いが取れるかどうか。
 だが、「守銭奴エリス」は淡々と答えた。
「仕方がない。送られてくる情報の内容次第では、クロエとの今後の付き合い方も考えなければならないし。その為の投資費用と思うことにする」
 彼女の表情は驚く程冷ややかで、やや鋭い印象のある美貌を際立たせていた。
「要するに、一杯食わされたのね」
「少なくともヴィンリンスよりは信用できると思ったんだけどね」
「いやいや」
 アリアスは引き攣った笑みを浮かべて手を横に振った。
「本来法士と魔術師は敵同士だからね。例え相手が味方側であっても、敵と内通するような奴は基本的に信用出来ないって。魔術師の裏切者はもっと信用出来ないけど」
 最後の一文はエリスの立ち位置に対する皮肉であり忠告である。今は関係のない話なので、強くは言わなかったが。
「仮に悪人じゃなかったとしても、向こうにも立場ってものがあるんだし」
「そうね。その通りだわ」
 肯定しつつも心中の動揺を抑えきれないのだろう。以降は沈黙したまま、エリスは何も語らなかった。アリアスは相手に聞こえないくらいの小さな溜息を吐いた。
 世の人々から「守銭奴」と呼ばれていても、エリス自身が利己主義に徹しようとしていても、結局彼女は「情」や「感覚」で動く人間だ。それは長年彼女に付き合ってきたアリアスが一番良く分かっていた。寧ろ彼女に比べればアリアスの方がよっぽど利己的だ。疫病神のアリアスを何だ彼んだ文句を言いながらも身内というだけで切り捨てられないエリス。アリアスはそんな彼女の情の深さを利用して、寄生虫の様に取り憑いているのだから。
 そして狡猾なアリアスは、お人好しの宿主エリスが取引相手としていた法士達に対し、以前から不信感を持ち警戒していた。無論、クロエに対してもである。
 今回は正にエリスの悪い面が出てしまったという所なのだろう。アリアスは、今回の件が見た目に寄らず柔らかい心を持つこの従姉妹に悪い影響を与えないよう祈った。
「そうそう、こっちの進捗。教会の壁の方は全部調べ終わったけど、おかしな空間とかは無かったわ。空間系法術や魔術が使用されていた形跡はなし。でも、幻術系は反応あり」
 重い空気に耐え切れず、アリアスは唐突にそう切り出した。鞄から書類の束を取り出して捲り始める。エリスは画面の方に顔を向けたまま尋ねた。
「幻術系? ヴィンリンスかしら」
「そうじゃない? 少なくとも建物自体に仕掛けられた術ではないみたいよ。明日以降は床と庭の方を調べてみるつもり」
「ええ、お願い。……あら」
 画面の一つから呼び鈴の様な音が鳴る。点滅する「受信」の文字に触れると、情報屋からの返信文書が表示された。起動音を鳴らしながら新しい画面が次々と現れる。うっすらと光を放つそれらの画面の一枚目には依頼料の前金の支払い確認が完了したことを告げる文言が記されており、二枚目には添付資料の目録が、三枚目以降には要求していた情報の詳細が記載されていた。また、後日追加で資料を送信する旨も書かれていた。
「え、もう来たの? 今、入金したばかりなのに」
「流石、本職は早いわね」
 主に金銭的な理由で好ましいとは思わない相手であったが、その見事な腕前に不覚にも感心してしまう。素直に賛辞を述べた後、エリスは目録に並んだ題目の一つに触れた。すると、既に表示されていた画面の一つが最前面へと移動した。
 アリアスもエリスの横から画面を覗き見ていたが、次第にその顔が険しくなっていった。逆にエリスからは先程の冷たさが消えて完全な無表情となる。
「これって……」
 アリアスは呻いた。
「なるほど、クロエが秘密にする訳ね」
 同時に聖法庁文化管理省史書管理局の司書官であるクロエと今回の事件との関連性も、よりはっきりと見えてきた。実に厄介な案件を持ち込んでくれたものである。
「どうする? 何か深入りしたらやばそうだけど……」
 エリスの返答は早かった。
「とりあえず、あんたは調査を続行して。自称冒険家の実力、期待してるわよ」
 揶揄う様に言うと「自称じゃなーいっ!」という叫びが返ってきた。エリスは少しだけ気が緩んだのか、くすくすと笑い出した。様々な疑問が解けたことで、漸く今回の事件の終わりが見えてきたと感じたのかもしれない。しかし実際には、仕事は未だ完了しておらず問題も残っている。
(私の方はもう少し準備が必要ね)
 心の中でそう呟くと、エリスは室内にあった魔導具の一つを手元に持ってきて魔力を込めた。



2023.04.30 一部文言の修正

2023.04.29 04から05へ変更、全体の文言修正

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