◆ 第二章 埋没都市 ◆
08、天女と王子
《天》の《元素》より生まれ出でた《日》の恩恵は、神族に見捨てられた種族である地上人族にも平等に降り注ぐ。美しく光り輝く者以外を忌避し続けた光神プロトリシカと良く似た気質を持つ日神カンディア――そんな彼女には似つかわしくない奇妙な性質だ。
或いは、彼の神の閃光の如き苛烈さは表面上のもので、この穏やかで暖かな性質こそが彼女の本質なのかもしれない。そう思うと、ティファズの胸の内にある日神への敬慕の念が益々大きくなっていくのであった。
同時に、自分達の行いに対する罪悪感もじわじわと増していく。しかしティファズは頭を振り、「これは仕方のないことなのだ」と自分に言い聞かせた。
視線を少し上に向けると、石造りの建物の上に広い露台があって、簡素な衣服の上に立派な外衣を羽織った青年が立っているのが見えた。
「第二王子アージャ……」
カンブランタ王の第二子で聡明と名高いアージャ王子である。第一王子セケトとは腹違いの兄弟で、現在は次期宰相候補として父王の傍らに侍り、大臣達と共に政にも関わっている。
(私は運が良い。武術だけが取り柄の兄と軍事以外は多才な弟。彼は文官向きだわ。執政に適している。放っておいても王位争いは起き、彼こそが王になったのではないかしら)
ふふ、と笑いながらティファズは呟く。
「運も実力の内、ってね」
だが、油断は禁物だ。長子である第一王子セケトは、やはり一歩優勢であるのだ。おまけにあちらには智謀に長けた黒天人族の王女タルティナが付く。
力尽くなら負ける気はしないが、それだと今回の勝負の前にタルティナと決めた「遊戯の規則」に背く。ティファズは眉間に皺を寄らせ、頭の中で規則の内容を反芻した。
まず、今回の勝負を行うに当たって彼女達が危惧する可能性が二つあった。
一つ目は、勝敗が決する前に彼女達の行いが天界の住人に知られてしまうこと。天人族が下に見ている他種族の不満や反発はどうでも良いが、天人族の中にも人を駒として扱う行為を不快に思う者は少なからずいるだろう。勝負の途中で邪魔をされたくはない。
二つ目は、今回の件が地神に知られる可能性である。辺境ではあっても地上界は一応地神の領土の一部だ。《天》の種族を殊更に嫌う彼は、最悪ティファズ達を殺しにかかるかもしれない。或いは次の大戦の火種となる可能性だってある。
故に、勝負を企画したタルティナは次の様な提案をした。
それは《地》の領土と住人に対し〈術〉や〈祭具〉による加工を行わないこと。自分達が出来るのは、情報収集と助言のみ。その際には〈術〉や〈祭具〉の使用も可能とするが、兎に角天界や地界に感付かれない様、活動は小規模に行うこととする。
理に適ってはいる、とティファズも賛同した。先に上げた問題点だけではない。この勝負は天帝の近侍としての資質――即ち王佐の才を測るものだ。そういう意味でも、適切な制約だと思った。
忌々しいタルティナなんぞの意見を認めることには、正直抵抗はあったが。
(さて、どのようにして彼を支援するか)
暫く考えてみたが、何も思い付かなかった。
タルティナの方に未だ動きが見られず、彼女がどういう方針で行くつもりなのかが定かではないので、こちらも不用意には動けないのだ。また、恐らくはこちら側が先手を打ってセケトに仕掛ける段階でもない。
「うーん、こういう頭を使う仕事はやっぱり私向きではないわね。……とりあえず、顔合わせだけでも済ませておきましょうか」
ティファズは右手を上げ、手鈴形の〈祭具〉を〈術〉で召喚すると、すぐさまそれを発動させた。
◇◇◇
大きく開けた露台の上でアージャは空を見上げた。
青く澄み切った空だ。銀糸の様な彼の髪を舞い上げる風も心地良い。
「良い風だ」
深呼吸すると都会のものとは思えない清らかな空気が体内に入ってくる。その空気が、連日続く机仕事で溜まり切った疲労をアージャの身体の中から洗い流してくれるように感じられた。
ふと、風音に混じって掛け声の様なものが聞こえてくる。
アージャは声のする方角を見た。建物の陰に隠れて見えないが、その辺りは軍の修練所がある場所だ。恐らくは武勇に優れた長子のセケトが、今日も武官達を見舞っているのだろう。
そこに思い至って、アージャは眉を寄せた。
(兄上も鍛錬にばかり精を出さず、もう少しは政も手伝って下されば良いものを。これでは先が思いやられる)
そうしてアージャは深々と溜息を吐いた。
その時だった。
――しゃん!
彼には馴染みのない奇妙な音がした。
だが、どこかで聞いたことがある音だ。アージャは記憶を辿る。
――しゃん!
また、同じ音がする。そこで彼は「ああ」と声を上げた。
(確か、これは「鈴」という楽器だ。以前、東方の国から来た楽団がこれを持っていた……)
程よい音量で耳触りが良い音色にアージャは暫く聞き入っていたが、やがて思う所があり首を傾げた。少なくとも数か月内に、東方の客が王宮を訪れる予定はなかった筈だが、と。
そして、その音の中に混じる人の声に気付いた時、アージャはさっと青褪めた。
その音は自分の耳から入ってきたものではなかったのだ。
(……ジャ、ア……ャ)
頭の中に直接響くその声は高く、初めは子供のものであるように聞こえた。
「……何、だ?」
全身から一気に汗が噴き出した。
不気味な声は次第に若い女性のものへと変わり、判然としなかった言葉の内容もはっきりと聞き取れるようになってくる。
(ア……ジ……ャ、アー……ジャ……)
「私、を……呼んでいるのか?」
漸くそれを理解して無意識に身体を仰け反らせた瞬間、アージャは目が眩む程の眩い光に呑み込まれた。
◇◇◇
思わず瞼を閉じてしまっていたアージャは、周囲の様子が大きく変化したのを気配で察して、恐る恐る目を開いた。
辺りは相変わらず白い光に包まれていたが、その光に時折薄く影が射すのが見えた。ゆらゆらと揺れる様はまるで水中から見上げる水面の様だ。
「何だ、これは……?」
アージャは呆然と立ち尽くした。衝撃が大き過ぎて、優秀と言われるその頭脳を機能させることが出来ない。
その時、彼の耳にはっきりと女の声が届いた。
「私の声が聞こえますか、アージャ」
穏やかで美しい声だ。
「誰だ!?」
アージャは勢い良く振り返る。
するとそこには、この世の者とは思えない程に整った美貌を持つ女性が、身体に淡い光を纏って立っていた。大国の高位の王子である彼には今迄数多くの美女と出会う機会があったが、この領域に至る者は今まで見たことがない。
美しいのは容姿だけではない。彼女が纏う衣は絹よりも滑らかに輝いており、布の色や描かれている模様は本物の生花の様に鮮やかであった。また、装飾品は人の手で生み出された物とは思えない程に精工だった。
(なんと美しい!)
伝承で語られる天女や女神の実物はきっとこういう姿をしているのだろう。そんなことを考えながら、彼は溜息を吐いた。
その反応に女性は一瞬だけ戸惑うような表情を見せたが、やがて形の良い唇を開き、彼に語り掛けてきた。
「地上人族の王子アージャよ、私の名はティファズ・カンディアーナ。天帝ポルトリテシモの下僕にして日神カンディアにお仕えする白天人族の一人です」
「天人……天女様?」
驚いた。彼女は真実天女であったらしい。
天女ティファズは続ける。
「アージャ王子、私はこの国の窮地を救う為に参りました」
「え……?」
「この国は遠からず大きな災禍に見舞われることになるでしょう。聡明な貴方には、既にその未来が見えているのではありませんか?」
「それは……」
悲し気に首を傾ける姿も実に絵になる。平時ならばそう思い、感嘆の息を漏らしただろう。
だが、一国の王子である彼はそうはならなかった。
「全ては、貴方の父親の奔放さと世継ぎの子である異母兄の無知粗暴に起因しています。セケト王子はこの大きな都を治め得る器ではありません」
「……」
否定できない。全てアージャ自身も感じていたことだ。まさかそれを天帝の眷族の口から聞くことになるとは思いも寄らなかったが。
「地上人の子よ。我々天上の住人は貴方がたと縁を断って久しいが、この事態には少々憂慮を覚えているのです。ですから、私はこの不都合な事態に手を加える為に貴方の許を訪れました。貴方に時代の王となって頂く為に」
アージャは目を剥く。その顔に浮かんでいるのは何故か「恐怖心」だった。
「私に? どうして……いやそれよりも、貴方は本当に天女様なのですか?」
恐らくは不本意な反応だったのだろう。彼女はやや硬い声音で言葉を返した。
「それを理解して頂きたくて、貴方をこの場所へ招いたのですが」
彼女は明らかに不快感を抱いている。アージャは更に慌てた。
「いや、しかし、これは余りに私にとって都合が良すぎるのです。私も、あの兄ではなく私こそが長子として生まれていれば、と考えたことが度々ありました。だからこれは、そんな私の願望が見せた夢ではないかと」
「なるほど、そうですか……。では、証を残しましょう。手をお出しなさい」
天女は手を耳へ持っていくと、垂れ下がっていた金属製の耳飾りを外した。そして、それを細い指で摘まみ、アージャの眼前へ差し出した。
「あの……?」
「これは何の力も持たない只の耳飾り。ですが元の場所に戻った時、貴方がまだこれを手にしていれば、今この時間の出来事が夢ではなかった証明となるでしょう?」
「確かにその通りで御座います」
アージャは何度もこくこくと頷いて、両手で耳飾りを受け取った。
「では、何れまた。時が来たら、私は再び貴方の許を訪れましょう」
そう言い終わると天女の身体はふわりと宙に浮き、そのまま光の中へと溶けていく。
遠ざかっていく彼女に向かって、アージャは慌てて手を伸ばした。
「お待ちを! まだお聞きしたいことが――」
その時、アージャはどうしてか母親に置き去りにされる幼子の様な気持ちになっていた。
◇◇◇
「……!」
アージャは勢いよく上体を起こした。次に辺りをきょろきょろと見回す。
彼はまた露台の上に立っていた。規則正しい掛け声が耳の端に小さく響いてくる。
彼の腕の下には厚みのある手摺があり、額や腕には圧迫感が残っていた。
(夢……。眠っていたのか、私は……)
余程疲れが溜まっていたらしい。こんな所で眠ってしまうなんて。思わず苦笑いの声が漏れた。
意識がはっきりとしてくるにつれ、アージャの胸の内に虚しさが広がってくる。
(夢の中で私ははっきりと「私こそが長子として生まれていれば」と言っていた。王位が欲しいと思っていた。自覚はなかったが、それが私の本心なのだろう。でも、それは罪だ。争いの素でしかない)
瞼が熱くなるのを感じる。彼は耐え切れず、瞼を擦ろうと右手に力を入れた。
その時、掌に鋭い痛みが走った。驚いた彼は手を開く。
するとそこには――。
「ああ……」
掌に載っていたのは「彼女」の耳飾りだった。金属製に見えるのにまるで羽根のように軽い、不思議な耳飾りだ。
それは、先程起こった出来事が全て現実のものであったことを示す証であった。
(ああ……ああ、ああっ! なんて、都合の良い……!)
右手の拳を額に当てたまま暫く俯いていたアージャであったが、その後に「それにしても」と考えを巡らせた。
余りに自分に都合が良過ぎる展開で、かえって疑念が湧き起こってくる。彼女は本当に天女だったのだろうか。人外であるのは確かだろうが、神の使いなどではなく自分を堕落させる魔性だったのではないか。
だが、彼は頭を振って否定する。
(そんなことはない筈だ。彼女の指摘は正しいものだったのだから)
少なくとも、アージャはそう確信していた。
(だが、もしそうであるならば、私はあの兄を倒さねばならないのか!)
相手の力量は良く分かっている。恐れは然程ない。
その筈なのに、アージャの手の震えはなかなか治まってはくれなかった。
2023.06.25 一部文言を修正
2020.12.31 サブタイトル変更