薄明かりの神の園


 12、輝く者



 講義の時間が終わり食事も済ませて既に床に付いたアミュは、不意に誰かに呼ばれたような気がして目を覚ました。
 天界に来てから、否、正確にはその少し前辺りから時折このような感覚に襲われる。シャンセに相談してみると、「もしかしたらだけど、渾神が君に何か語りかけているのかもしれないね」と不安げな表情を見せた。

(やはり、彼は怖いのでしょうね。渾神に主導権を持っていかれることが)

 不意に心の中に響く声。この現象には未だに慣れない。しかも、今回はいつもとは違う声だった。しかしながら、どこかで聞いた覚えのある声でもある。
「誰……?」
 怯えた様子で尋ねると、相手はおどけたように「あらあら、ごめんなさいね」と謝ってきた。何処か華やかで明るい印象を受ける女性の声だ。
 ほんの少し気が緩んだアミュは、気が付けば声の主に話し掛けていた。
「シャンセ先生はやっぱり渾神様が怖いのでしょうか? 先生は私を利用すると言っていましたが、いつも親切にしてくれますし、渾神様は私を守ってくれる神様なのだと聞きました。だから、私は二人に仲良くしてもらいたいです」
(「仲良く」? ふふふ、くすくすくす)
 相手の女は馬鹿にするように笑った。
 アミュはむっとする。
(まあ、御免なさい。気を悪くしないでね。でも、「仲良く」というのはどうでしょうか。どうしてシャンセが自身の思惑を告白したのか、私はその場におりませんでしたので分かりませんが、彼が貴女の力を利用しようとしているのは疑いようのないことですわ。彼の言葉通りにね。しかも、シャンセは渾神の神力ではなく、貴女の力を利用しようとしているのです)
「どうして? 私は渾神様の力がなければきっと何も出来ません」
(貴女には渾神の神力を引き出す渾侍としての能力があります。渾神は確かにあの傲慢で非情な天帝と対立している神ですけれど、孤高の神でもあります。その不遇さ故に彼女自身もまた興味や利用価値のない人間に対しては慈悲もなく情も持たない。そんな方がシャンセの境遇を哀れに思って、脱走の手助けなどする筈もありません。寧ろ、面白がって邪魔をし出すでしょうね。そのことを彼も知っているのです。だから、より扱いやすい貴女に目を付けた)
「でも、先生がおかしなことを考えていたとしても、渾神様には分かってしまうのではないのですか?」
(ええ、勿論あの方は気付いているでしょうとも。でも、手が出せないのです。貴女を人質に取られているから)
 その言葉に、アミュは思わず息を呑んだ。
「――ひと、じ、ち……?」
 そんなことは思い付きもしなかった。
 アミュは強く否定する。
「ありえませんっ、そんなこと!」
 シャンセは本当に親切にしてくれた。自分の為だと言う割に、アミュがその言葉を忘れるくらい彼は根気強く真摯な態度で接してくれた。だから、アミュはそれが隠し通すことのできない彼の本質なのだと思っていた。自分のことをあまり良く言わないのも、真面目で心根が清らかな人だからではないのか。
 そうだ。彼はそんな野蛮なことができる人ではない。
(騙されるのも無理はありません。ああいう外面ですからね。でも、真実です。渾神は誰より貴女の覚醒を願っている筈です。けれど、全く手出ししてこないでしょう。彼が邪魔をしているから手が出せないのです)
 違うと言いたかった。
 以前、シャンセに尋ねたことがある。何故、渾神は自分の前に現れないのかと。
 彼は「渾神がより自然な形での覚醒を望んでいるからだ」と答えた。渾神の神力は、目覚めたばかりの雛のようなアミュの身体には負担となる。歪んでしまうからと。
 説得力はあった。でも、それは真実だったのだろうか。
(ねえ、アミュ様。私はきっと貴女の力になれると思うのです)
 頭がくらくらする。
(外に出て来て下さいな。ちゃんと会ってお話ししたいわ。私は星の館の〈結界〉に阻まれて中に入ることが出来ません。だから、アミュ様の方から出て来て頂けませんか?)
「外……」
 永獄に来たばかりの頃の、異形の群れに襲われた恐怖が思い起こされる。
 アミュは首を振って拒絶した。
 女もアミュの心中を察したらしい。
(ああ、お可哀相に。異形に襲われたそうですね。大丈夫ですよ。私は違います。お疑いならば、〈結界〉の内側から私の姿をご覧になって下さい。人の形をしている筈ですから)
「……」
 アミュは暫く思い悩んだが、姿を覗き見るだけなら大丈夫だろうと判断し、思い切って部屋の外に出た。
 夜の帳に覆われた庭には音もなく星の雪が舞っている。
 その静かな美しさは「星の館」の名に相応しく、また、シャンセそのもののようにも思えた。暗い闇の世界から、いつもアミュを守ってくれたシャンセの――。
「こちらです」
 声のした方へ振り向く。深緑の垣根に開いた小さな穴の向こう側に人影が見えた。
 声の主と思われる女の容姿は際立って美しく、身体は光り輝き金色の粉を噴いていた。正に光の女神という風情だ。
 やはりアミュの定義するところの「人間」ではなかったが、彼女自身の言う通り人型ではあるようだ。少なくとも先日の異形とは明らかに異なっていた。
 アミュはうっとりとして思わず溜息を吐いた。
 そして、気付く。見た目は全く異なるが、この雰囲気には覚えがあった。
「雷精の人?」
 そう、天宮でアミュを守護してくれた獣姿の精霊に似ていたのだ。
「まあ、雷精をご存知なの? 彼等は親戚のようなものです。私は《光》の精霊――光精です。天帝の陰謀によって永獄に堕とされはしましたが、光神様が御健在の頃は侍女の一人としてお仕えしておりましたのよ」
「天帝……先生も嫌ってた。酷いことをした人だって」
「そうでしょうね。彼も天帝に陥れられたそうですから」
 光精はにっこりと笑った。
「信用して頂けましたか?」
「あ、すみませんでした。そちらへ行っても良いですか?」
「ええ、是非!」
 儚い蛍のように星達が舞う庭を横切り、アミュは門へ向かって走った。光精もまた、アミュを迎えるために門の前まで移動してきた。
「アミュ!」
 背後でシャンセが叫んだ。異変に気付いて出てきたのだ。
「さあ、早く!」
 光精も叫ぶ。
 アミュは足を止め、振り返ってシャンセを見た。
「アミュ様、〈結界〉の中では私は貴女をお助けすることが出来ません。彼に捕らえられる前にどうか早く!」
「奴の言葉を聞くな! 外へ出ては駄目だ!」
 激しくも優しいその眼差しはアミュが知っているままのシャンセに見える。
 しかし――。
「ごめんなさい」
 光精の言葉を全て信じた訳ではない。だが、結局アミュは彼女を選択した。
 ただ、無事な姿で外の世界へ出たかったから。一刻も早く元の世界に戻りたかったから。
 その為に、より安全と思われる方をアミュは選んだ。
(あ、そっか……)
 アミュは自身が情ではなく実益を取ったのだと自覚する。自分もまたシャンセを利用していただけなのだと。利用されていた訳ではない。利害が一致しただけ。
 或いは出会った頃から今に至るまで、親愛の情など本当は抱いていなかったのかもしれない。
 想いを振り切るように走り、アミュは遂に門の外へ出た。
 光精は狂喜した。
「何てことを! アミュ、その女は――」
 シャンセが何かを言いかけた時、アミュは光精に胸倉を掴まれた。否、厳密には掴まれたのは衣服ではなく肉の部分だ。
 咄嗟のことで、何をされたのか分からなかった。
 次の瞬間、強い衝撃が身体を襲い、一瞬で意識を奪われた。騙されたと気付く時間すら与えられなかった。
「キロネ、貴様!」
「あのねえ坊や、いつ〈封印門〉がなくなってしまうかもしれないって時に、家庭教師なんて悠長なことやってる場合じゃないでしょうが! 光精の私なら一瞬で終わるわ。《光》を直接叩き込んで、《渾》を刺激し覚醒させる」
「そんな荒治療……アミュを壊して渾神を敵に回すつもりか! それに今回に限って言えば、当分の間〈封印門〉は消滅しない。アミュの刑はまだ確定していないんだ。例え反体制側であっても高位神の侍神を審理し、処罰する判決を正式に下すには時間が掛かる。その上、現時点でも未だ渾神が何を企んでいるのかは判明せず天界側も下手に動けないんだ。だから――」
「それも〈星読〉から得た情報? 私、あんまり信用していないのよねえ、〈星読〉って。だって本当に未来が分かるなら、何であんたは今、永獄にいるのよ」
「それは……」
「ずっと休みなく〈星読〉ばっかりやってる訳じゃないから? 〈星読〉で運命を知って、未来を変えてしまったから? それだけじゃないわよねえ。あんたも本当は知ってるんでしょ。〈星読〉は完全じゃないって。星精にも意思があり個性がある。常に運命に流されてるままじゃないんだってことをね」
「貴様……!」
「おい、もう止めろって!」
 今にも戦闘態勢に入ろうとする両者の間に慌てて割って入ったのは、キロネと同じく永獄の毒気に溶かされない〈人形殻〉を着たマティアヌスだった。
「落ち着け、冷静になれ。王子様、あんたもだ。渾侍をこのまま野晒しにしておいて良いのかよ」
「……! そうだ、アミュ!」
 マティアヌスの言葉に漸く気付かされ、シャンセは慌ててアミュを抱き寄せた。
 しかし、反応は全くない。土気色の顔のまま眠り続ける少女には、生気が宿っていなかった。
「アミュ、アミュ!」
 そんな二人の様子をキロネは冷ややかに見下ろしていた。
「ふん。何よ、心にもない態度で。今更、演技の必要なんてないんじゃない?」
「キロネ!」
 マティアヌスはキロネを嗜める。尊大で浅はかなキロネとは違い、彼の心中には多少なりとも渾神やシャンセへの畏怖があったからだ。
 両者の間に気まずい空気が流れたが、少ししてマティアヌスは再び口を開いた。
「しかし、どうする? これで仮に永獄からの脱獄が成功しても、外じゃ天軍が手薬煉引いて待ち構えてるかもしれないぜ」
「あら、大丈夫よ。きっと心優しい渾侍様が全部引き受けて下さる筈だから」
「お前……」
 要するに、渾侍一人を囮にして自分達はさっさと逃げよう、という作戦らしい。否、これは作戦ではない。ただの行き当たりばったりだ。実に彼女らしいことである。
 マティアヌスは深々と溜息を吐いた。


 そんな三者三様の思惑も届かない深い深い場所へ、アミュは堕ちていった。


   ◇◇◇


 どろりと意識がぶれる。
 闇の中に一人置き去りにされ、必死に掻き消そうとしても次から次へと湧水のように溢れ出る恐怖にアミュは我が身を抱き締めた。
 きっと、今自分に何か起こっても助けてくれる手はない。
 それだけは明確に理解できた。

 ――世界には《光》《闇》の二源と《時》《理》《虚》《渾》四外、《天》《地》《火》《水》《風》《木》、《幻》《実》《命》《冥》《智》《力》正逆十二の《元素》が大きな柱として存在していて、各々が一つの領域――小世界を《顕現》しているんだ。

 ――今の君の肉体は渾神によって作られた侍神の器。根底ではより強力に《渾》と渾神に連結している。そういう風に作られている。

 ふと、シャンセの語った言葉が脳裏を過ぎった。
(《元素》が《顕現》世界を生み出し、私の身体は《渾》へと繋がっている)
 つまり、それはアミュの身体が《渾》を介して、別の世界へと繋がっているということではないだろうか。
 以前教わったように内側へと潜り《渾》に接触すれば、そこから「渾界」とやらへ出られるのではないのか。〈封印門〉や〈闇籠〉を破壊し、天界で天帝達と直接対決する危険を冒さずとも、だ。
(出られる!)
 アミュはそう確信し、意識をより深く沈めた。
 穏やかに波打つ湖面から仰向けに水中深くへと堕ちていく。茫洋とした流れに身体を揺られる感覚は、記憶のない過去、この身に感じたことのあるような気がした。
 奇妙な心地良さの中でアミュは暫しゆらゆらとまどろんでいたが、はっと本来の目的を思い出し、《元素》の水流に乗り湖底を目指した。
 深淵に潜るほど《元素》の濃度は強くなり、アミュの意思に関係なく魂を引き擦り込んでいく。
 やがて、《元素》の海での泳ぎに慣れてくると、今迄気にも留めなかったことに意識が回り始めた。
 アミュは今、自分がどういう状態や形状で存在しているのか全く分からなくなってしまっていたのだ。
 もしかしたら、人の形をしてはいないのではないか。そして、このまま《元素》の海にどろどろに溶けてしまって、元の形には戻れないのではないか。
 そんな恐怖が湧き起こる。
(嫌だ。怖い……!)
 心の中で強く叫んだ瞬間、アミュは全身を強打した。正確には打ち付けられるように強く拒絶される感覚に襲われた。
 背後には湖底――《渾》の気配があった。
 色も形もない大きな塊がずるりと蠢く。
 固まりは表面に一つの小さな瘤を形成し、その瘤はやがて女性の白い上半身へと変化していった。
(私に変革を齎すもう一人の私――)
 暁と夕暮れの色をした長い髪を音もなく棚引かせた女は、魂体を強打した衝撃で意識を失いかけているアミュに近付き、優しく頬を撫でた。
(よく此処まで来たわね。嬉しいわ)
 多重の音声が謳のように心に響く。
(お、か……さ……?)
(でも、まだ駄目よ。正解じゃないわ。私と溶け合い、一つになるということではね。私の本質とは本来融合を示す混在ではなく、放出を示す原始だから。この行為は理解にはほど遠い。だから――)
(……)
 急速に意識が遠退いていく。
(あの子達にはお仕置きが必要のようね)
 にっこりと微笑んだ女の顔を見届けて、アミュの意識は完全に途切れた。


   ◇◇◇


 忘れたくても忘れられない神気だった。
「キロネ……」
 シャンセは呻く。
「何よ? どうなのその子、使えそう?」
 光精二人はまだ気付いてない様子だ。暢気なものである。だが、好都合だ。
 門の中に飛び込むと、シャンセは硬く扉を閉ざした。
〈結界〉を何十にも張り、最大限に強化する。
「うおっ! いきなりどうしたんだ、王子様」
「ちょっと、何なの!」
 キロネとマティアヌスは驚いて門を見た。
 扉の向こうでシャンセは告げる。
「キロネよ、今回の一件は全てお前の犯した罪によって成された結果だ。つまり、お前の責任だ。世界の為に犠牲となってくれ」
「はあ? 何、言ってんのよ。私、何も悪いことなんてしてないでしょ?」
「いや、しただろ」
 マティアヌスが呆れて口を挟む。するとキロネはマティアヌスの方を向き、口を尖らせて反論した。
「してない! 必要とされる手段を取っただけよ。きっと、渾神も渾侍も後で感謝する筈だわ。覚醒させてくれて有難うって――」
「――言う訳ないでしょう」
 四人目の声。だが、アミュの声ではなかった。永獄全土を覆う圧倒的な神気。この時には流石にキロネ達も気が付いた。
 恐る恐る振り返る。
「この身体がアミュのものであったことに感謝なさい。私、この子にはまだ汚れ仕事をさせたくはないのよ。だから、命だけは助けてあげる。……ぼっこぼこにはするけどね!」
 暁色の長い髪を揺らしたその姿は渾侍アミュではなく、渾神ヴァルガヴェリーテのそれであった。


 現在進行形で文字通り「ぼっこぼこ」の状態にされている光精二人の悲鳴を聞きながら、シャンセは門の向こう側で震えた。ああ、言わんこっちゃない。
(それにしても……)
 シャンセには一つ心に引っかかったことがあった。
 先程、渾神が見せたアミュに対する愛情、慈悲。
(一体、どういうことだ?)
 彼女はそんな神ではなかった筈だが――。



2021.10.02 サブタイトル変更

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