汚怪々(うけけ)


 肆



 社木が導いた場所は、夕方に訪れた神社であった。林に囲われた境内に月明り以外の光はなく、夜目の利かない伊佐弥は歩くのにも苦労する。社木はそんな彼の手を引いて小山の頂上に群がる木々の間まで連れて行き、懐から取り出した紙切れを握らせた。社木曰く、ある神社の霊験あらたかな札で、持っている者の気配を消す効果があるのだという。
「うけっ、静かにね」
 珍しく声を潜めて社木は言った。伊佐弥もまた小声で言葉を返す。
「社木先生こそ」
 返事はなかったが社木から笑った時の様な吐息の音が聞こえ、伊佐弥はほんの少し気を緩ませた。
 その直後だ。
「ほら来た、ほら来た」
 社木が嬉しそうに囁く。続いて、さくさくと土を踏む音が聞えてきた。本当に微かな、恐らくは体重の軽い動物の足音である。
 音の主は、伊佐弥の目線の先にまで遣って来ると足を止めた。社の前で立ち止まっているのだろう。しかし、残念ながら伊佐弥には相手の姿を確認することは出来なかった。蛇の妖怪であれば視力以外の感覚が優れている者が多いが、血の薄い彼にはそういった力もない。ただ、恐ろしさに耐えながら暗闇を見詰めることしか出来ない。伊佐弥は縋る様に社木から渡された札を握り締めた。
 一方、闇に潜んだ来訪者は誰かに向かって呼び掛けた。動物のものではない、人間の女の声である。しかも、伊佐弥にとっては馴染みのある声だった。
「神様、神様、どうぞお出まし下さい。駒です。貴方様の眷属の狐です。お伝えすることがあって参ったのです。どうかお出でになって下さい」
 返事はない。しかしながら、周辺の空気が不自然に揺らいだ様に伊佐弥は感じた。
「神様!」
 女がそう叫ぶと闇に沈んでいた社殿が俄に輝き出し、ややあってその光からぽろりと細長いものが捻れ出された。地面に転がっている細長い光の塊はやがて人の形となり、纏っている光は容姿がはっきりと分かる程度まで弱くなる。光と神気を纏う者――神であった。この神社の祭神であろう、と伊佐弥は推察した。それが証拠に神が不在となった建物は、既に光を失っていた。
 また、神より放たれる淡い光は女の姿をはっきりと浮かび上がらせた。人間の言葉で話すそれは、狐の姿をした妖怪であった。
 社より現れた神は立ち上がろうと身体を起したが、途中で短く呻いて再び地面に突っ伏してしまう。事情は分からないが、伊佐弥には眼前の神が衰弱している様に見えた。実際、彼の予想は大きく外れてはいなかった様で、狐は慌てて神に駆け寄った。
「ああ、神様。何とお労しい……」
 狐は神の周囲をぐるぐると廻りながら、頻りに自分の身体を掏り付ける。
「神様、憎き下々の者共が身の程知らずにも我等の身辺を嗅ぎ回っております。神様をこんな目に合わせておきながら、神様の領地を奪っておきながら、それでは足らぬと言わんばかりに、お窶れになった神様がただ食事をなさったというだけで悪者扱いして、また神様を酷い目に合わせようとしているのです。ですがご安心下さい、神様。この駒が必ずや神様をお守り致します。だからどうか、どうか元気になって下さいまし。再び皆が神様の御威光に傅く幸福を得られますように」
 狐の甘やかな声つきとは対照的に、端正な男神の顔が苦し気に歪む。息を切らせながらも彼は身体を起こし、狐を見た。両者の視線が交わり、狐の方は再び足を止める。
「お前は――」
 神が言葉を発しようとした時だった。木陰に身を潜めていた社木が彼等の前へと進み出て、勿体ぶった口調で会話に割って入った。
「おんやあ、その『下々』って蛇城の家も含まれるんですう? 彼方の祭神、そこに転がってる神様よりも位が高かった筈ですけどお」
「お前は!」
 狐は声を荒げて社木の方へと振り向く。
「うけけっ。お久し振りい、狛狐のお駒さん。いや、さっき振り? 社木だよう。覚えてるう?」
「『社木』……そうか、あの社木か!」
 何かに気付いた狐は、飛び上がって後退りした。逃げた訳ではない。社木から距離を空けた所で、唸りながら攻撃態勢を取っていた。
「昼間は不意打ちだったし、ちょおっと頭が追い付いてなかったから、適当に誤魔化して退散したけどねえ。今の話の感じだと君、また殺すつもりでしょ。其方の神様もそろそろしんどいんじゃない? 今夜中に決着を付けようか」
「貴様、管轄違いだろう。何時の間に三和の地に侵入した? 何が目的で我等の邪魔をする?」
「えーっ、吾輩が三和に引越して来たの、結構前なんだけどなあ。うけけ。目的については、大体昼間言った通りだよう。あの時の話には嘘も混じってるけど、全部が全部嘘って訳じゃないんだよう。今回の件を調べてるのは依頼されたからさあ、彼にね」
 社木は背後に隠れている伊佐弥の方を見た。言外に「出てこい」と言われている気がして、伊佐弥は握っていた札を折り畳み、懐に仕舞い込んだ。そして、社木達の前に歩み出た。
「お駒さん」
 伊佐弥は狐の名前と思わしき言葉を呟いた。
「伊佐弥さん」
 狐は呆然として伊佐弥の名を呼び返した。これで確定した。眼前の狐は間違いなくお駒の本性である。伊佐弥は視線を反らしながら、大きな溜息を吐いた。
「お駒さん、貴女が古橋で人食い事件を起こし、僕の姉に罪を擦り付けた真犯人だったんですね」
「そ、それは……」
「うけけけけっ、さっきの話を聞いて思い出した。ここ確か封印されてたんだったね。祭神が穢れて暴れ狂ったとかで。眷属の君も霊力を大幅に削られて変化の術すら使えなくなって、何処かに逃げたんだっけ。でもお、君はそれが不満だったんだろうねえ。だから、他所で修行でもして力を取り戻し、ここの封印を外側から破った。で、汚染と封印の所為で弱り込んだ神様を救出。神力を回復させる為に妖怪よりは襲いやすくて獣よりは霊力のある人間を神様に食べさせた、と」
 弁明しようとした所で邪魔をされ、お駒は社木を殺意の籠った目で睨み付けた。しかし、後に続く伊佐弥の言葉で再び焦り出す。
「貴女がその様な行為を成す怪だなんて、考えもしませんでした。とても残念に思います」
「違います、私は――」
「違わない」
 次にお駒の言い訳を制したのは、彼女が愛して止まない神であった。
「何も違わない。この獣はあろうことか私に人の肉を食わせていたのだ。社ごと封じられる前からな。初めは騙し討ち、真実を知ってからは無理矢理に。そうして私を穢し、荒ぶる神へと変じさせた」
「目的は?」
 社木は冷ややかに尋ねる。零落したとは言え神に向ける態度ではない。だが、弱り切った神には相手の態度を気に掛ける余裕もなかった。
「分からぬ。そもそもその獣は私の眷属を自称しているが、事実ではない。真の眷属はそやつに引き裂かれ、知らぬ間に私の一部となった。そうして、そやつは空いた場所に収まったのだ。欲深い狐だ。神の眷族になることによって自らの格を上げようとしたのだろう。しかもそればかりでは飽き足らず、私を祀ってくれていた人間達にまで手を出した。皆、嬲り殺しにされた。元より私は現世の祖神とは違い一つの家を見守ることしか出来ぬ小さき神。故に、彼等を守ってやることが出来なんだ」
「違います! 絶対に違います! 貴方様は立派な神様です! 今は封印の所為で衰えてしまって、お気持ちまで弱くなってしまっているだけです。また私が供物を持って参ります。沢山沢山。残さず召し上がって下さいまし。お腹が一杯になって元気を取り戻したら、きっと御心も変わる筈です」
「だーかーらあ、その供物が駄目なんだって。神様にも食人が大丈夫な神様と駄目な神様がいるの。そこの神様は食人が駄目な方の神様なのっ!」
「黙れ、道を外れた神の僕が! 貴様の言うことなぞ、一つとして信用出来るものか!」
 お駒は再び唸り声を上げる。今にも社木に飛び掛からんという様子だ。伊佐弥は眉を寄せ、彼女の身勝手な行動を止める為に問い掛けた。
「お駒さん、一つ聞きたいことがあります」
「伊佐弥さん、貴方もこんな人の言うことを信じるのですか? 何年も親しくしてきた私のことよりも?」
「そういう話ではありませんよ、お駒さん。受け入れがたいことですが、貴女が其方の神様を信仰していて、この御方を助ける為に人を殺したというのは分かりました。でも腑に落ちないのは、その際に僕の姉の榊子に化けたことです。貴女が内心で僕のことをどう思っていたのかは分かりません。けれど、表面上でも親しく付き合ってきたつもりだからこそ、知っておかなければなりません。どうして、姉に罪を被せる様な真似を? 自覚はありませんでしたが、僕は何か貴女に恨まれるようなことをしましたか?」
「まさか、そんな風に誤解されるなんて! 私はそれで伊佐弥さんのことも救えると思ったからやったのです」
 伊佐弥は目を見開いた。お駒の発した言葉の意味が分からなかった。嘘の多い狐だ。ここに至るまで多くの嘘を吐いている。否、そもそも狐の妖怪とは押し並べて他者を化かすものである。今の彼女の様子は悪意は感じられないが、その振る舞いもまた彼女の手練手管の一つなのかもしれない。だが、長い付き合いだ。心の隅ではまだお駒を信じたい気持ちもあった。
「僕が? どうして?」
 警戒しつつも、伊佐弥は先程の言葉の真意を尋ねた。すると、お駒は身を乗り出して訴え掛けた。
「伊佐弥さんは、あのお屋敷でずっと酷い目に遭わされてきたから」
 僅かな時間、会話が止まる。風に揺られた木の葉のざわめきが一際大きく聞えた。



2023・11・23 一部文言を修正

2023.11.23 一部文言を修正

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