聖女の涙


 03



 ヴィンリンスに対する苛立ちがぶり返してきたのは、それから僅か数時間後のことだった。
(結局、ヴィンリンスの口車に乗る形になっちゃったわね。やっぱり気に入らないわ、あいつ)
 エリスには別の意図があってあの様な返事をした訳だが、相手からは彼女が上手く言い包められた様に見えた可能性があると気が付いたのだ。脳裏に浮かぶ憎き相手の顔にエリスは球形の魔導具を投げ付け、「後で見てろよ」と脅しておいた。
 そもそも、エリスはヴィンリンスに限らず法術徒全般を嫌っている。彼等との取引が多く自身の不利益になるから普段は表に出さないが、本音は他の魔術師と変わらないのだ。法術徒は世界の全てが自分達の思い通りに動くと思っている。動くべきだと思っている。そんな風に彼女には見えていた。時々、忘れてしまいそうになるが。
「おい、聞いているのか!」
 エリスが考え込んでいると、通信機能を持った魔導具から少年の怒鳴り声が聞こえてきた。通話中であったことを思い出して、彼女は少しだけ慌てた。
「ああ、ごめんな――」
 素直に謝罪しようとしたのだが――。
「いくら年増とはいえ、耄碌するにはまだ早いだろう。しっかりしてくれよ。同じ話を何度も説明するのは、面倒臭いんだ」
 謝罪の途中で失礼極まりない言葉が返ってきて黙り込んだ。子供の言ったこととは言え、何とも許し難い。彼女はまだ二十代後半だというのに。
「そう言えば、貴方も一応法術関係者だったわね、クロエ」
「何を今更。だから、私に聞いてきたのだろう。やはり惚けたか?」
「……」
 何を言っても毒を含んだ言葉で返してくる。一々反論するのも面倒になったので、エリスは毒の部分は聞き流すことにした。
 通信相手のクロエ司書官は、十代半ばという若さで聖法庁文化管理省史書管理局の副局長を務める神童だ。更には、ヴィンリンスと同じ階級の上級法術師でもある。彼もまたエリスの秘密の取引相手の一人で、リズドア教会の依頼を斡旋してきたのもこのクロエであった。
 ヴィンリンスが接触してきた後、エリスは本来の依頼者とも言える彼に状況を説明した。聖法庁内のいざこざは、部外者が関与するには危険度が高すぎる。出来れば当人達だけで処理してもらいたいと考えたのだ。話を聞き終えたクロエは、初めの内は渋面を作って考え込んでいたが、事情を知って尚エリスに任務続行の意志があることを知り、今回の依頼についてもう少し踏み込んだ話を聞かせてくれた。
 彼によれば、「聖女の涙」は元々リズドア教会の統轄部署であるオーヴィリア大教院の宝物庫の中で、厳重に保管されていた物だったらしい。地方とは言っても大教院級ともなると、物一つ移動するにも様々な利権の問題や中央機関である聖法庁内の派閥争い等が絡んでくるという話だから、ヴィンリンスが言っていた「事情」というのも大方その類の諍いと関係しているのだろう。
「じゃあ、リズドア教会にあるのは?」
「あの教会の人間は誰も信じないそうだが、模造品だ。いや、模造品『だった』」
「『だった』?」
「ある日を境に本物になったんだ。そして、オーヴィリア大教院からは本物の『聖女の涙』と一人の法士が消えた。教院幹部の甥に当たる男だ。まあ、行方不明ではなく純粋に転勤なのだがね。今はリズドア教会にいる筈だよ。要するに、その男がオーヴィリア大教院の宝物庫から本物を盗み出し、リズドア教会の模造品と摩り替えたのだと司法省は考えているらしい。犯人が身内と分かっているだけに、大教院は下手に動けなかったという訳だな」
「腐ってるわね」
 エリスは嘲笑う。お前達は聖職者ではなかったのか、とてもそんな風には見えないではないか、と。クロエも溜息を吐きはしたものの、否定はしなかった。
「身内の恥は言いたくないが、あの馬鹿――ヴィンリンスを見れば明らかだろう。あれの何処が敬虔な法術徒に見える。ああいう手合いが上層部を占めているのだぞ。……しかし、ヴィンリンスは法術師としては優秀だ。その奴がこう何度も失敗していることと、リズドア教会に漂う魔力の量を考えれば『あれ』が――」
 そこで、クロエは頭を振った。
「少しお喋りが過ぎたな。ここから先は機密事項だ。ご要望通り、リズドア教会とリズドア公関連の資料を幾らか送ってやろう。ああ、勘違いしないでもらいたいのだが、これはあくまで外部協力者に対しての限定的な措置であって――」
「あーっ、分かってる! 十分よ! 有難う! それで、情報料はお幾ら?」
 長いお説教に突入しそうだったので、エリスは無理矢理話を切った。聡明過ぎる頭脳と史書管理という担当業務が影響しているのか、彼には少々年寄り臭い所があり、自分より遥かに年上の大人をしばしば戸惑わせていた。残念なことに、大して親密ではない筈のエリスも既に経験済みである。
「必要ない。情報提供も仕事の一環だ。そんなことより、アリアスに真面な物を食わせてやれ」
 クロエから返ってきた言葉もまた年上目線のものだ。しかしながら、一番の問題はそこではない。
「どんな噂が立ってるのよ?」
 エリスは苦々しい顔付きになった。自分がアリアスを奴隷扱いしているとでも言いたいのだろうか、と。奴の道楽に付き合わされて、扱き使われているのは此方だというのに。
 すると、クロエは声を上げて笑った。無邪気に笑う様は年相応に見える。
「冗談だ。本当に何も要らないよ」
「嫌よ、借りを作るだけなんて! 気持ちが悪いわ! 何かあるでしょう? ほら、何でも!」
 そう言って、エリスはクロエを急き立てた。取引相手に借りを作ってしまうと、後々それを口実にどの様な面倒事を押し付けられるか分からない。彼がその様な行いをする人物ではないことはエリスも重々承知していたが、他の取引相手がどう思うかを考えると特別扱いは余り宜しくはないのだ。
 しかし、それはあくまでもエリスの考えであって、送った誠意が損得勘定で返ってきたクロエは困惑した。
「仕事だから借りにならないと言っているのに勝手なことを……。まあ、そうだな。なら、一つだけ。『聖女の涙』をヴィンリンスに渡さず、聖法庁の司法官が到着するまで守り切ってもらいたいのだが」
「あら、そんなこと」
 本当に「そんなこと」だった。だが、エリスの大したことはないという態度にクロエは思わず「えっ?」と声を漏らした。
「報酬を貰うんじゃないのか? ヴィンリンスから」
「報酬だけ貰って、司法官に『聖女の涙』を渡すのよ。……って言うか、ほぼ当初の依頼通りよねえ、それ」
「聖女の涙」を売り飛ばす計画は消えてしまうが、今後のクロエや法術側との付き合いを考えれば、恐らく今回は手を出さない選択が正解だろう。きっと不良魔女の些細な悪戯程度に捉えてはもらえない。流石のエリスも根の深い問題にまで首を突っ込んで、必要以上に恨みを買いたくはないのだ。
(リズドア教会からの報酬が少な過ぎて経費の方が上回るかもしれないけど、損失分はヴィンリンスから騙し取る報酬で埋めれば良いか。後々ヴィンリンス側の人間が噛み付いてくるかもしれないけど、それは依頼者であるクロエ側に擦り付け――否、法術徒内で解決してもらうことにして)
 再びエリスの脳裏にヴィンリンスの姿が浮かんだ。しかも今度は顔だけではなく全身で、何故か高らかに笑っている。エリスは頬を引き攣らせた。
 不正を行っているのは皆同じなのだが、凡その事情を把握すると、やはり一番問題行動を取っているのは彼である様に思えた。「本当に碌でもない男だ」と彼女は脳内のヴィンリンスに罵声を浴びせ、魔導具を幾つも投げ付けた。
「お前らしいよ」
 エリスの思考を読んだクロエは、反応に困って苦笑いをしたのであった。


   ◇◇◇


 クロエから送られてきた資料に一通り目を通したエリスは、後日教会の資料室へと足を運んだ。資料の中にこの場所に関する記述があったのだ。依頼内容に関係がない為か、教会長による案内がなかった場所だ。
 法士寮の傍らに佇む小さな建物の内部には、中肉中背の男性一人が通れる程度の間隔で書架が配置されていた。壁沿いの棚の高さが天井近くまである為か、外観よりも中はやや広く感じられる。地方教会の資料室にしては蔵書量が多いように思えるが、それはこの資料室が地域の文書館も兼ねているからなのだそうだ。
 エリスは本棚を見上げながら、クロエから提供された資料の内容を頭の中で反芻する。結局あれらを含めても、現時点でエリスが入手している情報の中に、魔導具「聖女の涙」が何時頃どういった経緯で製造された物かを知ることが出来るものはなかった。だが、未調査の資料室には何かしらの記録が残っている可能性がある。
 ところで、「聖女の涙」の売却計画は諦めたのに何故未だにエリスがこの石に関する調査を続けているかというと、相手方が情報を小出しにしていることに不信感を抱き、彼女に開示された情報以上のことを把握しておきたかったというのが主な理由だった。知らないことで命取りになっては堪らない。他にも未知のものに対する私的な好奇心があったし、魔術師である彼女がよりにもよって聖法庁内部のごたごたに付き合わされる羽目になったことついて怒りを覚えてもいた為、敵対行為にならない程度に裏をかいてやりたい、あわよくば一矢報いたいと考えていた。
 クロエもそんなエリスの心中を察し、「任務遂行に必要」という彼女の方便に丸め込まれた振りをして、本当に必要かどうか分からないような資料を送っていたのだ。つまりあれらの資料は、任務継続を決めたエリスに対するクロエからの追加報酬の意味合いもあった。歳の割に出来る取引相手である。
 こうしてエリスはリズドア教会の資料室に辿り着いた訳だが、残念ながらここにある資料の中にも期待していた程の情報はなかった。せいぜいクロエの資料の裏付けか、零れ話のような伝承が記載されているくらいだ。
(ここもクロエがくれた資料の通りね。この教会は「リズドア公の居城跡だった」と記載されている)
 頁を捲ると書物独特の乾いた匂いが鼻を擽る。修行時代を思い出したエリスは、思わずくすりと笑ってしまった。
 その時だった。
「珍しいこと。資料室に司書官以外の人間がいるなんて」
 聞き覚えのない女の声がした。傍らに置かれていた背の高い脚立を見上げると、年の頃は十代半ばといった所であろうか、尼僧服を纏った少女がいつの間にか脚立の上に座っていた。
「本はお好き?」
 尼僧服の少女はやや幼く見える笑顔でそう尋ねたが、エリスの背には冷や汗が伝った。金に目が眩み、その報いとして命懸けの任務を幾度となく熟してきた経験から、彼女は図らずも危険に対して勘が鋭くなったと自負していた。だが、この尼僧はそんなエリスに全く気配を感じさせず傍らに出現したのだ。
 それに――。
(この強大な魔力……)
 ふと、クロエの言葉が脳裏を過ぎった。

 ――しかし、ヴィンリンスは法術師としては優秀だ。その奴がこう何度も失敗していることと、リズドア教会に漂う魔力の量を考えれば「あれ」が――。

 エリスは眉間に皺を寄らせる。
(つまり、教会に充満する魔力は「聖女の涙」から放出されているものだけじゃない。それとは別に強い魔力を持つ人間がこの教会にいて、ヴィンリンスを妨害している。そして、こいつがその妨害者かもしれないってことか)
 更に言うなら、当初の報告通り「聖女の涙」を狙う魔術師がヴィンリンスの他にいて、彼或いは彼等が同じ獲物を狙うヴィンリンスと互いに妨害し合い、結局両者とも「聖女の涙」を手中に収めることが出来ないでいるということだ。もしそうであるなら、犯人の魔術師と思わしき目の前の少女が、彼女から見ればヴィンリンス側に当たるであろう自分に接触してきた理由は何なのか。
 そんなエリスの疑念を知ってか知らずか、少女はまるで同級生の女生徒にするように無邪気な様子で話し掛けてきた。
「私は好きよ。『アレスティア姫の指輪』、『雪の王城物語』……。『戦女神の泉』なんか最高じゃない?」
 少女の挙げた三点の書籍は、エリスにとっては辛うじて書名と概要だけは聞いたことがあるという程度の物だった。何れも五百年以上前の古典小説だ。内容はご都合主義丸出しの恋愛物、大衆的な少女趣味の作品であったように記憶している。
 どうやら彼女は相当な文学少女であるらしいが、やはりまともな教育機関が存在しない片田舎には不自然な知識量であると言わざるを得ない。ましてや、法術徒は魔力を忌み嫌う。その魔力を有り余る程身に纏い、まさか見た目通り都会から派遣されてきた尼僧でした、ということはあるまい。
「そう言えば、この教会にも素敵な伝説が残っているのよ!」
「はあ……」
 疑念は確信へと変わりつつあるが、気付いていないのか、少女は不毛な会話を続けるつもりのようだ。興が乗ってしまったのだろう。エリスは思わず溜息を吐いた。
「その昔、若く美しい領主は実の妹から想いを告げられ、彼女の想いに答えた。この城には不思議な力があって、愛し合う二人を守り続けるの」
 何処かで聞いたことのあるような設定だった。好きな人間は好きであろう、近親相姦物だ。初耳の情報だったので驚きはしたが、参考になるかは怪しい所である。そもそも、少女は未だ出典を明らかにしていない。つまり、嘘である可能性もあるということだ。
 それにしても、少女はどうしてその様な話をしたのだろうとエリスは首を傾げた。彼女は相変わらずの笑顔であったが、愛読書を語っていた時とは少し違って見えた。声音も熱が籠っていた先程とは打って変わって、実に淡々としている様に感じる。
 少しの間だけ会話が途切れた後、少女の目からすっと笑みが消え、代わりに蛇を睨む様な厳しい目付きに変わった。だが、口元には相変わらず微笑が讃えられている。そんな歪な笑顔を浮かべたまま、少女は力の籠った声で言い放った。
「そう、二人の幸せを壊そうとする者は……決して許さないのよ!」
 再び沈黙が落ちる。二人は見詰め合った。少女の目からは険しさが既に消えていた。
 そこで、漸くエリスは口を開いた。
「では、貴女は差し詰め『城の精』というところかしら? 脅迫にしては回りくどい言い方ね」
「ふふふ。私ね、貴女のこと、割と好きよ。だからこその警告。貴女とは戦いたくないわ、エリスさん。それと、私は『城の精』ではなくてよ。――私は『デーメテーラ』」
「何ですって?」
 狭い通路を舞うように少女は歩く。歩を進めた時に起こった微かな風が、尼僧服の裾を貴婦人の衣装のように優美に揺らした。
「デーメテーラ・グレイス・レイ・リズドア。覚えておいてね、それが私の名前」
 そう言い残すと、彼女は手を振って扉の向こう側へ消えていった。
 エリスは暫し少女が去った扉を睨み付けていたが、やがてはっと覚醒し顔を赤らめた。相手を警戒し過ぎて動かなかった所為で、まんまと逃げられてしまったことに気が付いたのだ。
 扉に向かって走り出そうとしたが、近くの窓に覚えのある気配を感じ、エリスは足を止めた。
「アリアス、誤魔化しの為に驚かそうとしても駄目よ。その様子じゃ、大した収穫はないようね」
「うっ!」
 がっくりと項垂れるアリアスは放置して、エリスは資料室の入口へと向かった。だが、尼僧服の少女は既に居なかった。廊下も一通り探したが、見当たらない。彼女が魔術師であるならば、遠距離移動や姿を隠す魔術を使用できる可能性があるから、教会中探してももう見付けられないのかもしれない。
 エリスは窓から侵入を試みているアリアスの方へと振り返り、尋ねた。
「ねえ、あんたさっきの話聞いて――」
「ひゃっ!」
「――や、いいわ……」
 もし今迄の会話を聞いていたなら、職業柄敵に対する勘が飛び抜けて鋭いアリアスが、あの様な不審人物を見逃す筈がない。きっとエリスの指示を待つことなく、飛び掛るなり後を追うなりしていただろう。だから、恐らくアリアスは尼僧服の少女が去り、エリスが扉の方を警戒していた間にやって来たのだ。



2023.04.15 全体の文言修正、02前半と結合、後半を次話へ移動

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