氷の華



 雪が降る。長命な村長以外、誰も見たことのない雪が――。


   ◇◇◇


 その村は、木神イスターシャが支配する領域――「木界」の南東にあった。季節は春しか存在せず、常に色取り取りの花が咲き乱れていた。村の住人は古木の精霊である村長と木人族――木神が生み出した人型種族――の守衛を除き、殆どが花から生まれた「花精」であった。同じ草から咲いた花、株分かれした草の花もおり、どことなく面立ちが似通っている者が多い。
 村は概ね平和で、敵と言えば植物を食い荒らす一部の害虫や獣ぐらいであった。植物の精霊は彼等とは相性が悪い。村人達だけでは対応できないので、近くの街から木人族の狩人達がやってきて交代で見張りを行ってくれていた。
 そんな穏やかな常春の村に、ある日短い冬がやってきた。雪は半日降り、夜頃には治まった。
 翌朝、村は真っ白な銀世界となっていた。好奇心旺盛な花精の子供達は目を輝かせた。そんな子供達に他種族の年長者達は、暖かな家から決して出ないよう言って聞かせた。
 だが、子供の内の数人が大人達の言い付けを無視し、家の外どころか村の外れまで飛び出してしまった。


 冷たい膜の張った湖を覗き込んで、少女の形をした花精が胸をときめかせている。
「うわあ、凄いね。こんなの初めて見たよ」
「うん。でも、あんまり近付いちゃ駄目だよ。冷気に当てられたら僕等は……」
「大丈夫だよ。ちょっと見るだけだもの」
 少女は湖に目を釘付けにしたまま振り返らずに答えた。彼女に注意を促した少年はいい加減な相手の態度が気に入らなかった様で、ぶつぶつと小声で何事かを呟いていた。
 しかし、次に少女が発した言葉でさっと顔色を変えた。
「ねえ、こっち来て。氷の中にお花が咲いてる」
「花? 雪の結晶じゃなく?」
「その、雪の何とかってのは分からないけど、私達によく似た子だよ」
 少年は絶句する。
 花精達はこの世の現象の源である《元素》から、花を媒介してこちら側の世界に《顕現》する。つまり、彼等は花そのものではない。しかしながら、花精に限らず精霊達は死亡すると《顕現》する媒体に似た死骸を残す場合がある。こちら側の世界においては、その媒体の姿こそが彼等の本来あるべき形なのだとする説や死に際に子孫を残そうとしている説等、様々言われているが――。
 要するに、花の残骸は花精の亡骸である可能性があるということだ。
「どの子のか分かる?」
「うーん、分かんない」
 少女は村では比較的幼い方で、話が通じにくい。少年は焦れたが、かと言って自らが湖に接近する勇気はなかった。氷は花を含む生物全般と相性が悪いからだ。
「兎も角、村長にご報告しないと。戻るよ。早くこっちに来て」
「はあい」
 名残惜しい気持ちはあったが、少年の鬼気迫る様子に何も言えず、少女は渋々彼の言葉に従った。
 湖を去る前、少女は一度だけ振り返り、花のあった方を見た。今の彼女の位置からは見えないが、頭の中には花の姿がありありと刻まれている。
 氷漬けの死骸は不気味だったけれど、今迄見たどの花よりも美しく感じられた。


 その後、子供達は村長に湖の花について報告し、言い付けを破って外出したことを咎められた。気温が戻っても暫くは謹慎していなければならないらしい。
 湖については雪解けを待ってから、調査を始めるそうだ。尤も氷が溶けたら、氷の中にある花もきっと湖の底に沈んでしまうだろうが。


   ◇◇◇


 数日後、暖かな日和のお陰で雪は大半の場所で溶け切っていた。だが、肝心の湖周辺の森だけは何故か雪解けの気配がなく、湖にも氷が張ったままだった。
 その湖の氷の内からゆっくりと身体を起こす者があった。長い白銀の髪に血の気のない白い肌、白く簡素な衣は宝石の粒が縫い付けられているが如く、光を反射してきらきらと輝いていた。その姿は人族の女性に似てはいたが、多様な人族の種の何れとも異なっていた。
「ここは……」
 女性がそう呟いた時だ。嬉し気に「わあ!」と声を上げた者がいた。
 先日、湖で花の残骸を見付けた少女だった。聞き分けの悪い彼女は、またも言い付けを破って危険な湖へとやってきたのだ。
「初めて見る人だ。花精の人?」
 少女は女性に詰め寄る。好奇心を抑えられない彼女の様子に圧倒されながら、女性は何とか言葉を返す。
「貴女は?」
「私はマト。この近くに住んでる花精だよ」
「『かせい』……? 私は……」
 自分の素性を思い出そうと女性は頭の中を探るが、何一つ沸き上がってこなかった。思考自体が覚束ないのだ。
「分からないわ」
「え?」
「何も思い出せないの。自分が何者なのか、何故ここに居るのかも」
「ふうん。ひょっとして生まれたてなのかな。でも、きっと花精だよね。私や皆に似てるもの」
「そう、なのかしら」
 会話が途絶える。各々、女性の素性について考えを巡らせている様だ。
 暫く沈黙が続いた後、先に口を開いたのは花精の少女――マトの方であった。
「貴女、ひょっとしたら湖の中に居た人なのかも。村長に知らせないと」
 そこで女性は眉間に皺を寄らせ、右手を額に当てる。
「むらおさ……か、せい……。その言葉、聞き覚えがある気がする」
「本当?」
「私は貴女の住む村に居たのかしら?」
「そうなのかな……。ああ、思い出した! 貴女、記憶喪失って奴かもしれない」
「『きおくそうしつ』?」
 初めて聞く言葉に、女性は困惑した表情を浮かべて顔を上げた。
「辛いことがあったり大怪我をしたりした時になるんだって。今の貴女みたいに、何も思い出せなくなっちゃうの」
「そうなんだ……」
「だったら、お医者様に診てもらわないと。貴女は、きっと湖に落ちて怪我をしているのだわ。ここで待ってて。すぐ連れて来るから」
「待って!」
 去ろうとするマトの手首を掴んで、女性は止める。彼女の瞳は不安気に揺れており、今にも泣き出しそうだった。
「それより、もっと話をして頂戴。貴女の話を聞いている内に、何か思い出せるような気がするの」
「でも……」
「お願い。今の状態のまま、置いていかれるのは不安なの。せめて、もう少し記憶を取り戻してから……」
 女性はマトを真っ直ぐ見詰めた。花の精霊とは異質な妖しい美しさをまざまざと見せつけられたマトは、思わず顔を赤らめる。白く幻惑的なその姿はまるで雪の様だ。氷中の可憐な花の印象とは異なる印象だ。もしかしたら、別の花なのかもしれない。
「まあ、良いけど……怪我は大丈夫なの?」
「特に痛む所はないわ」
「分かった。少しだけね」
 自分に身を寄せるようにマトがちょこんと座ったのを見て、女性はほっと安堵の溜息を吐いた。


 それから、マトは様々な話をした。《元素》のこと、木界のこと、精霊のこと、花精のこと、自分の住んでいる村のこと、親しい者達のこと。
 一通り聞き終わった所で、女性はまた息を吐いた。
「貴女は小さいのに物知りなのね」
 幼子は物を知らぬものという知識は残っているようだ。マトは苦笑いした。
「そんなでもないよ。寿命が長い精霊さん達はもっと物知りだから。それで、何か思い出せた?」
「ええ。やっぱり、私はこの村の出身だと思うの。貴女が話してくれた内容で覚えのあるものが幾つか有ったから。でも、肝心な所は……」
「じゃあ、やっぱり早くお医者様に診てもらった方が良いよ。私たち花精は、か弱くて死に易いから。寿命も短いしね。まあ、私は蕾だからまだまだ生きられるけど」
 他の種族から見れば不運な定めをマトは些事であるかの様に軽い調子で言った。彼女は勢いよく立ち上がると、腰を下ろしたままの女性に手を振る。
「じゃあ、行ってくるね。すぐ戻ってくるから」
「ええ、お願い。色々有難うね、マト」
「うん!」
 マトは花の精霊の印象に相応しく、軽やかに駆けていった。


   ◇◇◇


 村へ戻る道中で、マトは湖の女性の姿を思い浮かべた。
(私達によく似てるけど、全然雰囲気が違う。凄く綺麗な人だった。知らない人だったけど、外れの方に住んでたのかな?)
 あんな変わった女性をちらりとでも見かけたならば、いくら浅はかで忘れっぽい自分でも記憶に残っている筈だ。否、自分に見覚えはなくとも、村の誰かが常に噂するだろう。マトの語る村の話に聞き覚えがあると言っていたので、近所に住んでいる可能性は高いが。
(村に居付いてくれないかな)
 異質さはあったが、花精らしく儚げで、嫌いではなかった。村の者達もきっと彼女を気に入るに違いない。
 マトが高鳴る胸に手を当てようとした、その時であった。
「あれ、何か……」
 急に腕の感覚が無くなる。
 異常は腕だけに止まらない。体全体が岩を載せられた様に重く、次には足の感覚もなくなった。
 マトが恐怖を感じる間もなく、今度は彼女の意識までもが失われていく。
「ね、む――」
 か細く声を上げると、マトはその場に倒れ込んだ。
 地面にぶつかった瞬間、マトの身体は塵の様に霧散して消えた。後には霜に覆われた小さな花の蕾だけが残っていた。まるでこれから咲き誇らんとする様に、蕾の口を少しだけ開いて。


 一方その頃、森の湖では取り残された女性が所在なげに足をばたつかせていた。
「マト、遅いな……」
 ひょっとして、村に帰る前に用事を忘れてしまったのではないかと女性は危惧した。マトは余り親しくない者から見てもそんな雰囲気のある子だった。
 マトが永遠に戻らないことを彼女が知るのは、この日より十日先となる。


   ◇◇◇


「彼女ですか?」
「ええ。先だって森の様子を見に行ってくれた守衛達は、その様に申しておりました」
 村長の要請を受けて木界中央から派遣されてきた女官吏は、物陰から静かに湖の様子を窺った。氷の張った湖の中心には雪のように白い女性の精霊が一人立っている。
 女官吏の傍らに潜む村長は、未知への恐怖を顔に滲ませたまま彼女を見て尋ねた。
「あれの正体がお分かりになりますか?」
「氷精ですね、間違いなく。私が話をしに行きます。貴方がたは、決して近付かないで下さい」
「大丈夫なのですか?」
 心配する村長に、彼女は華やかな笑顔で答えた。
「私ですか? 木精の出とは言え、仮にも侍神――神の副官――を務める身です。そう易々とはやられはしませんよ」
 女官吏は澱みなく歩を進める。途中で氷漬けになっている花にも気付いたが、一瞬そちらに目を遣っただけで足を止めることはなかった。
 やがて、彼女は湖の中央まで辿り着く。
 湖上に出た時点で女官吏の存在に気付いた氷精は、怪訝な表情で眼前の女の様子を窺っていた。
「はじめまして。私は木侍、名をエスカトゥーラと申します。まずは貴女の素性をお聞きしても良いですか?」
「……分からないんです。御免なさい」
「それは困りましたね」
 氷精は申し訳なさそうな顔をして目を伏せる。
 次に、エスカトゥーラは氷漬けの花の方を見て尋ねた。
「あの花に心当たりは?」
 氷精は首を横に振って答えた。
「ふむ……」
 エスカトゥーラは首を少し傾けた。氷精は目に見えて困惑していて、嘘を吐いている様には見えない。本当に何も知らないのかもしれない。
 薄緑の裾を揺らし、エスカトゥーラは氷漬けの花の許まで歩いていく。花を足元に見下ろすと、彼女は懐から短刀を取り出し、花の周辺の氷に突き立てた。
 その短刀は特別製で、岩や氷の様な硬い物質でも熟した果物を切る様に容易く割いてしまう。エスカトゥーラは周辺の氷ごと切り取った花を羽衣の上に載せると、村長の居る所まで戻ってきた。
「村長、この花に見覚えはありますか?」
 暫く考え込んだ後、思い当たる節があったようで、村長はエスカトゥーラを見返した。
「これは恐らくムルムルの花です。彼女の媒体となった花で、何時も髪飾りとして身に着けていました。ムルムルは我々の村の生まれではありませんが、村の近くで暮らしていました。ここ暫くは見かけませんでしたが……。まさか、あの子も奴の毒牙に?」
「さあ、どうでしょう。実は、私には一つ気になっていることがあるのですよ」
「気になること?」
 エスカトゥーラは湖の方を見た。
「湖の氷です。この村は冬の来ない地域の筈。なのに、この湖には氷が張っている。更に言えば、この場所には微かに神気が残っています。恐らくは、氷神様の物でしょう」
「そんな、どうして……」
 村長は青褪めた。この村にいる精霊達は皆、春の植物から生まれた者ばかりだ。氷神の到来に堪え得る者など、一人もいない。
 彼女はまだ近くに居るのだろうか。また遣ってくるのだろうか。不安ばかりが募った。
「恐らく大した理由はないのでしょう。あの方は時折無意識に非道な行いをなさるのですよ。御気質ですね。とは言え、掟破りを繰り返されては困ります。木神様にご報告申し上げて、氷神様の主君であられる水神様へ苦情を入れて頂きましょう」
「どうぞお願い致します」
 村長はほっと胸を撫で下ろした。水神も木神も、共に氷神より上位の神だ。幾ら傲慢で独善的と噂される彼の女神でも、彼等の要請を無下には出来まい。
「しかしそうであるならば、あの者は氷神様が残されたか、御来訪時に生れ出た氷精ということになるのでしょうか?」
「村長、あの氷精の顔はムルムルに似てはいませんか?」
「言われてみれば……。全くの同一ではありませんが、面影はある気がします」
「成程、やはり……」
 エスカトゥーラは一人納得したように頷いて、再び湖上の氷精の許へ行った。
「貴女の名前が分かりましたよ。『ムルムル』と言うそうです。元は花精で、恐らくは氷神様の御神気に当てられて、氷精へと変質したのでしょう」
「その様なことが起こり得るのですか!」
 聞き耳を立てていた村長が、驚いて声を上げる。エスカトゥーラは振り返って答えた。
「極稀に、ですが。何にせよ、貴女をこの場所に置いておく訳にはいきません。例え故意ではなかったとしても、貴女の氷気に当てられて既に花精が一人犠牲になってしまったのですから」
「『犠牲』?」
 氷精が言葉を吐く度、冷気が舞う。元花精とは思えない程、氷精としての力や存在感が強い女だ。彼女に影響を与えた氷神の神力の強さが良く表れている。
 だが、エスカトゥーラは臆することなく続けた。
「マト、と言う娘です。恐らく大勢存在する貴女の妹の内の一人でしょう。短命な小花の中でも、特に年若い蕾でした。彼女は貴女の様に氷精に変わることなく死んだそうです」
「そんな……」
 ムルムルの顔がより青白く染まる。やはり彼女に自覚はなかったようだ。自身の能力を制御できないなら、尚のこと、このまま捨ておく訳にはいかない。彼女には早々にこの地より退去してもらわなければならない。
「純粋な氷精ではない貴女を貴女の同朋達がすんなりと受け入れてくれるとは思い難い。そして、我々もそんな場所に何も知らない貴女を放り込む程、無慈悲ではありません。木界の中でも冬の季節の存在する地域があります。其処なら貴女でも問題なく暮らしていけるでしょう」
 しかし、ムルムルは雪華の涙を舞わせて首を横に振った。
「それはいけません、木侍様。私は罪を犯しました。どうか罰をお与え下さい」
「何の罰を期待しているのですか? 殺してほしいというのなら、私は応じかねますよ」
「でも!」
 高位神たる木神に仕え、眷族達の取り纏め役ともなっている女官吏は、ぎろりと氷精の小娘を睨み付けた。
「罪を犯した自覚があるなら、罰は自分で与えなさい。ただし、死は許しません。貴女の希望が叶うということは、『罰』という言葉の意味を考えれば、全く相反するものです」
「……」
 エスカトゥーラに気圧されて何も言い返せないムルムルは、がっくりと肩を落とし、たださめざめと泣き続けた。
 その涙が今は亡き花精の少女の為のものであったのか、自分自身の為のものであったのかは定かではない。もし後者であるなら、「氷精ムルムル」の生みの親である氷神シャルティローナによく似た気質だとエスカトゥーラは思った。


   ◇◇◇


 その後のムルムルの行方を知る者はいない。木界の冬の季節のある地方でも、彼女を見かけたという話をエスカトゥーラ達は聞かなかった。
 恐らくは、居た堪れずに木界を去ったのだろうと言われている。



楽園神典 小説Top へ戻る