汚怪々(うけけ)


 弐



 目的地までは徒歩で移動した。共に純粋な人間よりも運動能力の優れた妖怪の足ではあったが、昼前に出発して到着したのは正午を一刻程過ぎた頃であった。伊佐弥は早い段階で「乗り物でいくべきでは」と提案したのだが、社木は首を縦には振らなかった。何があるか分からないから他人の記憶に残るようなことは避けたいのだそうだ。詳しい説明は端折られたが、恐らくは事件に真犯人なり黒幕なりが居た場合に追跡されるのを防ぐ為なのだろう。とは言うものの、社木の恰好は例の小汚い恰好に緑葉で作られた蓑と一本歯下駄を合わせた奇抜なものであったので、市中ではどうやっても目立ってしまう。擦れ違う通行人の刺さるような視線を肌で感じながら、伊佐弥は俯き加減で道を急いだ。
 やがて、彼等は古橋の東側を流れる水路の許まで辿り着いた。社木は足を止めると大きく深呼吸をした。
「うけけっ、ここが事件現場かなっ。おどろおどろしい恐怖と怨念のふれいばあ、妖怪垂涎だね!」
「何かお分かりになりましたか?」
 伊佐弥が身を乗り出して問い掛けるのを社木は片手を上げて制した。
「まあ、待ちたまえ、若者よ。そう生き急ぐものではない。取り敢えず、頂きまあすっと」
 そう言うと、社木は口を有らん限りに広げてその場の空気を吸い込み始めた。どういう仕組みかは分からないが、ずぞぞぞという大きな音が立つ。伊佐弥は恥ずかしくなって止めに入った。
「何してるんですか!」
「恨みの念をねえ、取り込んでるの」
 吸気を中断して社木は答えた。
「『恨み』?」
「そそ。吾輩は恨みや妬みの様な負の感情と縁が深いのだよ。その所為か、負の念に触れると色々なことが分かるんだ」
 言い終わると、社木は何事もなかったかの様に作業を再開した。伊佐弥は彼の様子をただ呆然と眺めていたが、次第に社木の正体が気になってくる。彼の能力は妖怪としての特性に違いない。では、一体どういった種類の妖怪なのか。「負の念」に言及していたから、死霊や鬼の類であろうか。そんな恐ろし気な存在にはとても見えないのだが、人間に化けることの出来る妖怪は実に見掛けに依らないものである。
 暫くして彼は吸い込んだ息を思いっ切り吐き出し、伊佐弥の方へと振り向いた。困惑の色が混じった笑顔であった。
「やっぱり大蛇っぽいね」
「やはり、ですか」
「うけっ、少なくとも殺された人の記憶はそう語ってるね! 最初は人間の女の形をしていて、やがて身の丈以上の大きさの白い大蛇に変じたんだってさ。うーん、でも敢えて他の可能性を考えるならあ――」
 言い掛けて、社木は身体全体をぴたりと静止させる。彼が動き出したのは数拍後。こう言葉を続けた。
「やっぱ言うの止めた。次行こう、次」
 踵を返して速足で何処かへ向かおうとする社木を伊佐弥は慌てて追い掛けた。
「次ですか? 今度は何処に」
「うけけけけっ。恨みの残滓、一番強いのはここだけど蝸牛の歩いた跡みたいに何処かへ続いてるんだよね。追ってみよう」
「分かりました」
 伊佐弥は頷き、不規則に動いていた足を正しい調子に戻して社木の後に付いて行った。


 それから、更に一刻弱の時間が経過する。餌の匂いを追う犬の様に鼻を鳴らしながら社木が導いた先は、伊佐弥にとってはそうであってほしくないと思っていた場所であった。
「ああ……。君の家に着いちゃったね」
「そうですね……」
 相手を小馬鹿にしたような振る舞いが多い社木も、流石に気まずいと思ったらしく笑顔を引き攣らせている。結局の所、役所の判断はある程度正しかったということだ。とは言え、依頼人の要望は彼等の見落としを探ることである。結果がどうなるかは分からないが、取り敢えず社木は報酬分の仕事をすることにした。
「一応、中に入って確認させてもらっても良い?」
「はい。お願いします」
 暫し言葉を失っていた伊佐弥は社木の言葉を聞いて正気を取り戻し、屋敷の中を案内し始めた。負の念を感じ取ることが出来る社木には敷地の中で一番に向かうべき場所も分かっていたが、そればかり追っていたのでは彼が探知できる範囲の外にある情報を見逃す可能性がある。故に、彼はそのことを伊佐弥に説明した上で行き先を相手に任せていた。残念ながら目ぼしい収穫はなく、社木は何処へ行っても適当に相槌を打ちながら辺りを見回しているだけであったが。
 そんな社木の動きに変化があったのは、炊事場へ近付いた時だった。数歩後ろを歩いている伊佐弥の耳にも届く大きさで、彼は鼻をすんすんと鳴らす。伊佐弥はそこで社木の探査能力が本物であることを確信した。何故なら、この場所こそが被害者の遺体の一部が発見された現場であり、伊佐弥はそれを事前に社木に伝えてはいなかったからだ。
 炊事場の表側へと回ると、扉の前に役所の制服を着た男性が一人立っているのが目に入った。事件が発生してから未だ日が浅く調査が終了していないとのことで、若い役人達が持ち回りで警備をしているのだ。そうは言っても、古橋の方には既に誰も居なくなっていたので、実際には全く別の意図が存在する可能性もある。家人による証拠の隠滅や偽装を警戒しているのだろうか。
「やっほ」
 社木は役人に向かって軽く手を振る。それを見た相手は返事こそしなかったものの、心底嫌そうな顔を向けてきた。だが、直に意識的に此方を無視する様に視線を正面へと戻した。伊佐弥は驚きながらも声を潜めて聞いた。
「お役所の方とお知り合いだったのですか?」
「うけけ、顔見知り程度だよう」
「随分と顔が広いんですね」
「まっ、職業柄ねえ。ああ、ここの状況はもう大体分かったからもう良いよ。行こう」
「え? あ……」
 唐突に踵を返した社木の考えを量りかねたが、伊佐弥は速足で立ち去る彼を追い掛けることにする。役人が見えなくなった所で、伊佐弥は社木の横に並んで声を掛けた。
「何が分かったんですか?」
「うん。恨みの残滓、炊事場から更に別の場所へと向かってる。何処かの神社のお札か清めの塩でも使ったのかな。痕跡が消えかかってるけど」
 社木は立ち止まることなく答える。そこで、伊佐弥は漸く自分達が人気のない屋敷の裏手へと向かっていることに気が付いた。やや離れた場所に裏口が見える。
「今度は何処へ?」
「さあね。兎も角、付いて来て」
 伊佐弥は期待と不安の入り交じった面持ちになりながらも社木に承諾の返事をする。以降は無言で彼に付き従った。


 面倒なことに、最終目的地への道は一直線ではなかった。榊子の冤罪が晴れた場合に自身の残した痕跡を調べられる可能性があると考えた犯人が、追手の目を誤魔化す為に方々へ寄り道をし続けたのかもしれない、と社木は自身の推測を述べた。犯行が大胆である割に保身だけは周到な犯人である。その慎重さに相手の姑息な内面を感じ取り、伊佐弥は不快感を覚えた。
 結局、陽が落ち始めるまで二人は街中を徘徊する羽目になる。しかし、ある所で不意に鼻歌を響かせながら踊る様な足取りで歩いていた社木が、歌と足を止めてきょろきょろと首を振り始めた。伊佐弥は旅の終わりを悟り、同じ様に周囲を見回す。場所は三和の内、蛇城屋敷からは大分離れた小山の中であった。
「うん、ここだ。場所の所為かな。完全に痕跡が途切れてる」
「ここは……」
 伊佐弥は木製の鳥居を見上げた。塗料は剥げていたが、倒れそうな程には朽ちてはいない。手入れしている者がいるのだろう。社木は何を思ってか嬉しそうな声を発した。
「神社だねっ! 確か随分前に断絶した旧家の祖先神が祀られていた筈だ。人間の神様だよ。中は――」
「ああ、ちょっと」
 同行者には見向きもせず、社木は境内へと入っていく。まるで嬲りものにする玩具を見付けた猫の様だ。頭の整理が追い付かない伊佐弥が立ち往生して覗き込むも、鬱蒼と茂る木々の枝葉に隠れていて鳥居の向こうの様子は分からない。仕方なく伊佐弥は姿が見えなくなった社木の後を追い掛けた。
 中心に小規模の社殿を擁する神域は外観通りに狭く、事前の心配に反して社木は直に見付かった。彼は建物の前で膝を突き、閉じられた扉を凝視している。もしかすると彼の目には建物以外のものが映っているのかもしれないが、それが何であるのか、伊佐弥には判断出来なかった。
 自身も何か事件解決への手掛かりを見付けねば、と周囲の様子を窺った伊佐弥であったが、ふと扉の前に置かれた供物に意識が向いた。社木曰く「断絶した旧家の祖先神が祀られていた」とのことであったが、やはり手入れしている者がいるのだ。役所の職員であろうか、或いは他所で暮らす縁者が時折見に来ているのか。
「うけけ、居るねえ。居る」
 何が可笑しいのか、社木は心底愉快そうに笑い出した。
「何もないけど何か在る。ここは今もちゃんと生きてる神社だよ。随分と寂れてしまっているけど」
 それを聞いて伊佐弥は益々戸惑った。
「どうしてそんな神聖な場所に被害者の痕跡があるのでしょう。今回の件は此方の神様の御神意ということなのでしょうか?」
 彼が自問するように言うと、今度は社木が渋面を作って首を傾げた。
「ううん……。こりゃあ、一旦戻った方が良いのかなあ。神様関連だと益々お役所の職域に入っちゃう」
「通報した方が良いのでしょうか?」
「うんにゃ、大丈夫。多分知ってるでしょう。あちらさんこそ優秀な占術師やら神職やらを沢山抱え込んでるんだから。ただ、神様には気難しい方も多くて彼方の領域に立ち入るだけでも面倒な作法があるから、調査の進捗が遅くなってるのかもしれないねえ。少なくとも一介の妖怪や半妖に出来ることはここまでだ。今日の所は引き返そう」
「分かりました。仕方がありませんね」
 伊佐弥は肩を落とした。あと少しで真相が掴めそうなのに、寸前でお預けを食らってしまった状態だ。榊子の現在の状況が分からないことも相まって、伊佐弥は焦燥に駆られた。すると、珍しく社木が空気を読んで彼の肩をぽんぽんと叩いた。
「うけけけけっ。そう、落ち込みなさんなよ。手付金は受け取ったのだ。吾輩も中途半端な所で仕事を放り出したりはせぬよう。後で役所関係の知り合いに声を掛けてみるからねえ。坊ちゃんは家で大人しく待ってなさいな。うけけけけっ」
 反射的に「貴方が付いて来いと言ったのに」と零しかけたが、社木の言っていることは正しいと伊佐弥も理解していた。彼は蛇城の血が薄い。身体能力が多少人間よりも高いくらいで、他に妖怪らしい力は殆ど持っていない。辻の世界では表面上人間と妖怪の地位に差はないが、蛇城らしからぬということで彼の屋敷内での立場は低い所に置かれている。当然、父や異母姉とは違って役人や上流階級との伝手も彼にはなかった。足を使う以外に彼に出来ることなど何もないのだ。
(収穫が全くなかった訳ではない。今日の所はこれで良しとしよう)
 そう伊佐弥が自分に言い聞かせた時だ。社木が「おんやあ」と素っ頓狂な声を発した。怪訝な顔をして伊佐弥が振り向くと、社木は何時の間にか離れた場所に移動していて、此方に背を向けてしゃがみ込んでいる。伊佐弥は首を捻って社木へと歩み寄った。
「どうされました?」
「これ」
 社木は地面を指差す。その指の先には薄茶色をした獣毛の塊が落ちていた。彼の言わんとすることを察して伊佐弥は尋ねた。
「犯人の物でしょうか?」
 だが社木は眉間に皺を寄せ、目を閉じて唸った。
「どうだろうねえ、微かに妖気を纏ってはいるけども。辻の世界じゃ、獣の姿をした妖怪も妖怪みたいな獣も珍しくはないからさあ。ともあれ、ちょおっとばかし準備が足りなかったねえ。持って帰って分析したい所だけれど、何だか良く分からない怪異の体毛なんてちゃんとした処理をしないと怖くて触れないよ」
「そうですね」
「んまあ、取り敢えず記憶に留めてはおきましょ。さて、そろそろ本当に帰らないとねえ。あんまり君を帰すのが遅くなるとお、吾輩がお屋敷の人達に怒られそうだもの」
 面倒臭そうな態度の社木に急かされ、伊佐弥は渋々ながらも漸く帰路に就いた。暗い茂みの影から、気配を殺して彼等を観察している者がいたことに気付かないまま。



2024.03.31 一部文言を修正、加筆

2023.11.12 一部文言を修正

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