君の隣で



 現世と常世の境に「辻の世界」と呼ばれる場所がある。前者二つの世界に属する者にとってはこれらの地を繋ぐ道にしか見えないが、辻の世界の中では人間と妖怪、そして神が幾多の街を造り共存しているのだという。
 見えざるが故に現世ではその存在を知る者は殆どいない。怪異の扱いを生業としている者さえである。人にあらざる存在は常世より来るものだと信じている。無論、その説も完全に間違いという訳ではない。常世より来る怪異も確かにある。しかしながら、辻の世界から流れて来る存在もいた。そうして遣って来た妖怪や神は、人間と交流する際に屡々自らの住処を明かすことがあった。従って、存在すら知らない人間の方が多いけれども、極々一部には知られている話でもあった。
 そうした「知る者」達の一部は、やがて辻の世界より来る災厄に対抗する為に徒党を組む様になった。怪異を拒みながら、自身も怪異の如き技術を身に着け、時には怪異を利用することも厭わない集団である。辻の世界自体は動かし難く、また動かすべきではない自然の理の一つである為に、彼方の住人と常世の人間との軋轢は止むことなく、名も無き抵抗者達は使命と技術を代々に伝えて現在に至った。
「あれが君の故郷?」
 そう呟いた少女もまた前述の集団に属する構成員の一人であった。眼前には特殊な能力を持った者にしか見えない穴がある。空中の何もない場所に浮かぶ黒くて円い穴だ。中は暗闇以外に何も見えない。だが、闇を越えた先には恐らく沢山の住居や生物が存在しているのだろう。
 少女の傍らには、十代後半の彼女と大して歳が違わない様に見える青年が立っていた。先程少女が話しかけた相手だ。人の形を装ってはいるが、正体は妖怪であった。縁あって一昨年前から少女が使役することになった者である。自己申告によれば、鳥の化生であるのだという。実際に翼を生やした姿も見せたことがあるから、彼の言が偽りであったとしても鳥に因む何かであるのは事実だろうと少女や彼女の周りの人間は思っていた。
「さあ、どうかな。僕が生まれたのは気が遠くなるくらい昔のことだから、出生や由来に関する記憶はもうないんだよね」
 青年は僅かばかり困った様な色を滲ませて微笑んだ。
「本当?」
「本当だよ。何で疑うんだ」
「だって君、妖怪じゃん。妖怪は人間を騙すじゃん」
「君が僕に掛けた使役術は、唯の糸屑ですか?」
「むうっ」
 少女はぷくりと両頬を膨らませる。その態度は十代後半の娘としては幼いのか、年相応であるのか、人ではない彼には分からなかった。だが、相応しいかどうかという考えを排した上で彼は「幼い」と感じた。同時に――。

 むらりときた。

 使役術で繋がっているお陰で、青年には少女の感情の流れがある程度分かった。否、恐らくは術がなくとも彼女の開けっ広げな態度を見れば、今考えていることやこれから何を言わんとするのかも気付くことが出来たであろう。
(ああ、君をこちら側へ引き摺り込みたい)
 彼がその思いを表に出すことは決してない。数々の苦難を乗り越え、時に打ち拉がれながらも歪むことなくここまで来た彼女の心をこの手で砕いてしまいたいという欲求を。
「大丈夫だよ。僕は辻の世界へは帰らない。何処へも行かない。ずっと君の側に居るよ」
「そういうことを言いたかったんじゃないし」
 照れているのか不貞腐れているのか、顔を赤らめた少女はそっぽを向き、辻の世界へ続く穴を塞ぐ儀式に取り掛かる。難しい作業ではない。指示書の通りに彼女が所属する団体で作られた護符を貼り付けて呪文を唱えるだけだ。団体の職員としてはまだまだ未熟な彼女でも難なく熟せる仕事である。
 つまり、彼女の実力はそんな仕事しか任されない程度であった。彼女の施した使役術も、青年にとってはあってないようなものだ。だから、術を破って彼女を襲うことなど、この妖怪には造作もなかった。
(僕と同じ所まで堕として、決して逃げられないように縛り付けて、僕の本質が一体どういうものであるのかを存分に見せ付けたい。その時、君はどんな顔をするのだろうね。怒るのかな。怯えるのかな)
 だが、高ぶった身体は直に冷める。少女の背後で青年は頭を振った。きっと期待するような反応は得られまい、と。
 彼は少女に対して多くの嘘を吐いている。まず、本性が鳥の妖怪であるというのは虚言であるし、昔のことを覚えていないというのも嘘。彼女と契約した理由も公言しているものとは別の思惑に因るもので、本当の実力も隠している。人間らしく短慮な娘だ。他の者と同様に騙すのは容易い。そう思っていた。
 けれども実際に彼女と行動を共にして、頭は回らずとも勘は良いと思わされる場面に度々出くわすことになった。彼の本質についても薄々感付いている節があった。だから何れ種明かしをした際には、少女は「ああ、やはり」と言うのかもしれない。それが青年には少々癪に触った。彼の秘めた計画は道半ばであるが、時折全ての真実を明かして少女を引き裂きたいという衝動に駆られることがあった。
 しかし、彼は思い止まった。計画の遂行の邪魔になるからではない。羞恥心からだ。性質の良し悪しに拘らず、それを剥き出しにするのは恥ずかしいことだという価値観を持っていたのだ。人混みの中を衣一つ身に着けず闊歩する様なものだと。それに、他者との間に壁を設けておいた方が交流関係が円滑に進むという経験則もあった。どちらも妖怪としての特性による考えではなく彼個人の性格の問題である。
(でも、困ったことに彼女は僕の作った壁を越えて来た)
 不測の事態を警戒しながら、青年は僅かに望郷の念を滲ませて萎んでいく穴を眺めた。
(否、違うな。違う。基本的に彼女は壁を越えない。壁があることも壁を隔てた向こう側に何があるのかも知ってるけれど、敢えてぎりぎり手前の場所で踏み止まって越えないようにしているんだ。時々うっかり目測を誤って越えてしまってはいるけれども)
 力不足故に使役術を通して彼の感情が見通せず、且つ読心術を使うことも出来ない彼女が彼の嘘に気付いたのは大勢の者と接してきた経験が影響したのか、それとも他者に向き合う際の姿勢が彼と同じだからか。
(まあ、多分後者かな。少し迂闊だったか。目立った失敗はなかったと思うが)
 困ったものだ、と溜息を吐くも、一方で自身が然して悪い気はしていないことにも気付く。認めたくはないが、心の何処かに誰かに自分を理解してもらいたいという気持ちがあったのだろう。
(ともあれ、こちらの恥部を不躾に覗き見たのだ。そちらにも醜態を晒してもらう。それでお相子だ。計画の、糞ほど詰まらない遂行過程に於ける、ほんの少しの気休めくらいにはなっておくれよ)
「終わったよ」
 作業を済ませた少女が振り返って手を振る。その顔は明るい。しかし、青年と同様に自分を偽る性向だ。今の振る舞いも偽物なのかもしれない。
 青年は苦笑混じりに尋ねた。
「ねえ、僕が来る意味あった?」
「念の為だよ。次は不参加、とか言わないでよね」
「言わないけどさ。後は帰るだけ?」
「うん。これを仕舞ったらね」
 少女は青年に持たせていた鞄を受け取って肩に掛け、役割を終えて効果を発揮しなくなった護符を乱雑に突っ込んだ。
「もう良いよ。帰ろう」
 自分より少しだけ背丈のある青年の顔を見上げて、少女はそう声を掛ける。すると青年は無言のまま、にんまりと怪しげな笑みを浮かべて少女を横抱きにした。少女は思わず「うわっ!」と短い悲鳴を上げた。
「ちょっと、いきなり何するの!」
「仕事がないから作ったの。連れて帰ってあげるよ。口、閉じていて。でないと舌を噛むよ」
 青年は何もなかった背中から褐色の翼を伸ばし、大きく広げた。偽物の翼だ。彼は鳥の妖怪に化けているだけなのだから。しかしながら、彼は翼がなくとも飛ぶことの出来る妖怪である。次の瞬間、彼等は鳥の様に空へ向かって飛び立った。
「ちょっ、きゃああああっ!」
「あはははは!」
 先程よりも長い悲鳴が響いた。青年の顔を凝視する少女は気付かない。彼女が塞いだ穴の跡に残った揺らぎに、彼がある仕込みを行ったことに。
(全てが手遅れとなった後、真実を告げる瞬間を楽しみにしておこう)
 彼の本性は災厄。その望みは混沌。鵺たる老怪は幼い主に付き従い、現世を怪異で満たす為の旅を続けるのであった。



2024.04.16 誤字を修正
2023.10.29 一部文言を修正

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