よいこわるいこ


 後編



 ミヨを納屋に閉じ込めた後、家中の戸を締め切った太助は建物の中で一番暗い場所に座り込み、物思いに耽っていた。つぐみがこっそり母屋を出て、ミヨを見に行ったのにも気付かなかった。
「俺は悪くない。正しいことをしたんだ。何も間違ってはいない」
 つぐみが再び母屋へと戻って来た時、太助は頭を抱えて呪文の様にそう呟いていた。保身の為に自分の妹を差し出したというのに、今更罪悪感が湧いてきたのだろうか。しかも、再び自己保身に走っている様子だ。つぐみは兄の脆弱さに怒りを覚えた。しかし、これから太助を謀ることを考えると、心中の怒りを剥き出しにする訳にはいかない。
 つぐみは心配そうな表情を作って太助に声を掛けた。
「兄さん、今大丈夫」
「あ、ああ。何だ」
 夕刻の陽光が太助の歪んだ顔を赤く染める。殺人者の顔だ。そんな考えが頭を過り、つぐみは思わず眉を寄せた。
「酷い顔色。本当に大丈夫なの」
「問題ないよ。少し考えごとをしていて。それで、用件は」
「ご免なさい。大したことではないのだけれど、こんな物が落ちていたから」
 つぐみは後ろ手に持っていた人形を太助へと差し出す。木製の朽ちかけた人形を見た瞬間、太助の顔が更に大きく歪んだのをつぐみは見逃さなかった。やはり、ミヨの話は真実だったのだと確信した。
 しかしながら、本心を隠してつぐみは話を続ける。上手くやらなければ、ミヨも自分も命を失うかもしれないのだから。
「家では見掛けたことがなかったから、ひょっとしたらミヨの友達が遊びに来た時に忘れて行った物かもしれないと思ったのよ。だから、取り敢えずミヨに確認しようと探したのだけれど、あの子、何処にもいないの。ねえ、何処に行ったか心当たりはない」
 すると、突然太助はつぐみの手から乱暴に人形を奪い取り、勢い良く立ち上がる。そして、直ぐ様家から飛び出して行った。行き先はミヨを閉じ込めていた納屋だ。つぐみも「兄さん」と声を上げながら、太助の後を追った。


 一足先に納屋へと到着した太助は、扉の前で立ち尽くしながら内部を何度も見回した。納屋の戸は太助が来た時には既に開かれており、中は無人であった。
 ミヨは逃げたのだ。だが、どうやって。誰かが手引きをしたのか。否、それは今重要ではない。早くミヨを連れ戻さなければならない。ミヨは何処へ逃げたのか。
 その様なことを繰り返し考えていると、不意にどんっと背中に強い衝撃を受けた。太助は納屋の中へ倒れ込む。直後、背後の戸が閉まり閂が差される音がした。太助は痛みに堪えながら、慌てて後ろを振り返る。戸に隔てられて姿は見えないが、犯人の予想は付いた。つぐみである。
「つぐみ、一体何を」
「兄さんは暫く其処に居て。ミヨが無事に逃げ切るまで」
「お前、ミヨを逃がしたのか」
「当たり前でしょ」
 強い口調でそう言ったつぐみは、ばたばたと駆け出した。太助は怒りに任せて叫んだ。
「くそっ。誰か、誰か」
 しかし、彼の声はつぐみ以外の誰にも届かない。焦燥に駆られた太助は、先程ミヨがした様に扉に体当たりを繰り返したが、不思議なことに戸は鋼のように固く揺れることすらなかった。
 一方、つぐみはというと。
「私も逃げないと」
 一度母屋へ戻り、旅の途中で必要になるであろう物資を適当に風呂敷へと詰めていた。ミヨとは違って当事者ではない彼女には、まだ少しだけ準備の為に費やせるだけの時間が残っていると踏んだのだ。だが、それは大きな誤りであった。

 ――許さない。

 聞き覚えのない声が脳裏に響く。つぐみは思わず片耳に手を当て「えっ」と声を上げた。驚いて周囲を見回すが誰も居ない。呆気に取られたつぐみが動きを止めた時、唐突に片方の足首を誰かに掴まれて後ろに強く引っ張られた。
「痛っ。何」
 前へと倒れ込んだつぐみは、何とか体を捩って自分の足を確認する。すると、掴まれたと思い込んでいた足首に人の手はなく、代わりに木製の古い人形がぴたりと貼り付いていた。ミヨが見知らぬ子供から貰い、つぐみが納屋の中で拾い、今は太助が持っている筈の人形である。
「何、この人形」
 不自然な状態でそこにある人形に、つぐみは本能的な恐怖を覚えた。すると、再び声が響いた。

 ――許さない。許さない。
 ――裏切者。
 ――罰を受けろ。

 それぞれ別人の、しかしながら全てが子供の声であった。合唱の様な響きに併せて、つぐみの足が徐々に指の形に歪む。
「ひっ」
 つぐみは短く悲鳴を上げて必死に暴れたが、足はびくとも動かず、結局最期の時まで彼女は母屋の中から一歩も動くことが出来なかった。


   ◇◇◇


 夕闇に紺色が混じり始めた頃、ミヨは漸く社の前まで辿り着いた。身を隠しながら逃げた所為で、思いの外時間が掛かってしまった。乱れた呼吸を整えながらミヨは集落の方へと振り返り、続いて社を見る。昼頃集落の住人の手に依って開けられた穴は未だ塞がれてはおらず、掘った時に出た土が脇の方に丁寧に盛られていた。
「ここであの子が、ううん、あの子だけじゃない。沢山の子供が死んだんだ」
 そして集落の住人達は、今度はミヨをこの穴の中に詰めて殺すつもりなのだ。見慣れた山にぽっかりと空いた見慣れぬ穴に視線が吸い寄せられる。穴の入り口は赤黒く染まり、中は真っ暗で様子がまるで分からない。ミヨは身を震わせ、自身の体を抱くいた。問題が解決していない今の段階では、怒りよりも恐怖が勝っていた。
「気持ち悪い。早く行こう」
 ミヨが再び歩き出そうとした時だった。聞き覚えのない声が頭の中に響いた。

 ――悪い子。

 大人の声だ。祝詞の様に荘厳で歌の様に美しく、男の様であり女の様でもある。その声を聞いた途端、何故だかミヨの中からすっと恐怖が消えた。あからさまな超常現象であるとういうのに。
「誰」
 姿なき相手にミヨは尋ねる。だが、答えを聞くまでもなく彼女には漠然と声の主の正体が分かった。恐らくは社の主たる神であろうと。
 集落の守り神は冷ややかにミヨに告げた。

 ――お前は悪い子。相応しくない。

 ミヨが他者の為に犠牲となることを拒んだが故に。

 ――出てお行き。

 とん、と背中を押された様な感覚がした。次の瞬間、ミヨの視界が回転する。何度も何度も回転して真面に立っていられなくなり地面に膝を突いた時、彼女は何故か全く別の場所の地面に座り込んでいた。
 口をあんぐりと開けて彼女は周囲を隈なく観察した。辺りに生えている草は短く、木も疎らに生えている。民家や田畑は見当たらないが、道はそれなりに整備されているので、人がよく通る場所なのだろう。山も見えるが、大分遠い。山に囲まれた彼女の集落とは明らかに異なる景色だ。本当に全く知らない土地に来てしまった様である。集落の外だろうか。
「どうして。さっきまで山の中に居たのに」
 もしかして背後に見える山が先程までいた場所だろうか、と振り向く。そこで、ミヨは視線の先にある山の上の空に大きな雲が広がっているのに気が付いた。夜に近付いて来ている為だろうか、雲は真っ黒い色をしていて大層不気味に感じられる。
 ミヨは自分の頭上にある空も見てみた。此方の雲は彼方とは違い、赤や黄や紺色をしていた。その美しさに少しの間だけ見惚れていると、突然頬に冷たいものが当たった。
「雨だ」
 久方ぶりの雨である。ミヨは思わず口元を綻ばせ、胸の内を安堵や喜びの感情で満たした。
 暫くは地べたに座り込んだまま浮かれていたが、やがて本格的に自身の体や着物が濡れ始めると、彼女は慌てて近くに立っている木の元へと走り寄ったのであった。


 同じ頃、嘗てミヨが暮らしていた集落でも雨が降っていた。住人達は一様に暗くなった空を見上げている。
「雨だ。間違いない。今、儂の顔に雫が当たったぞ」
「ああ、雨だ。ようやっと」
「天に願いが通じたんだ」
「雨だ。雨が降るぞお」
 集落の住人達は水瓶を出したり、畑を見に行ったり、踊り出したりと、皆忙しなく動いている。そんな中、杖を突きながら集落の取り纏め役と一緒に表へ出てきた長老が険しい表情を浮かべた。
「待て。おかしい。雨乞いの儀式はまだだぞ。ミヨはどうした。太助は」
「さあ。でもまあ、そんなことはどうだって良いじゃないですか」
 後から出て来た取り纏め役の息子がそう返した。彼は長老とは違って今の状況を不審に思ってはいない。旱の予測は杞憂であったのだとさえ考えていた。今はただ喜びを噛み締めたい、ミヨの様子を見に行くのも明日で良い、太助達は吉報を待ち望んでいるのかもしれないが、はぐれ者達に構っていられる心境ではない、とも。
 若者の顔を二人が不安気に見詰めていると、小刻みに太鼓を叩く様な音が空から響き、ややあって、どおんという轟音が鳴り響くと共に辺りが光った。
 集落の彼方此方から悲鳴が上がる。だが、直に住民達の声は歓喜のそれへと変わった。
「雷まで」
「こりゃあ、相当降るかもしれん」
「ありがてえ」
 人々は再び天を仰ぎ、手を合わせて祈りを捧げた。


   ◇◇◇


 それから数日後、ミヨの住んでいた集落から徒歩で半日程歩いた先にある茶屋にて、三人の男が同じ縁台に座り、茶を飲みながら話をしていた。一人は行商を生業としている者、後の二人は近くの集落に居を構えている者達である。
 雨は既に上がり、白い雲が幾つか浮かんでいるものの、今日は眩いくらいの晴天だ。小鳥達が今を盛りと囀る声や青々と輝く道端の植物は、多くの人々の心を明るくしてくれた。だが、それに反して縁台に座る男達の話は深刻だった。
「それは本当かい」
「嘘吐いてどうすんだ。昨日、うちの集落の連中があっちの様子を見に行ったんだよ。その中にこいつも居たんだけども」
 話題は茶屋からも見える山の麓にある集落、つまりはミヨの暮らしていた集落であり、先日まで行商人が滞在していた場所の現状についてである。彼が立ち去ってから三日後、件の集落は豪雨に見舞われたらしい。住人達が頻りに旱の心配をしていたので、ただ雨が降っただけなら喜ばしいことだったのだが、深夜、人々が寝静まったであろう頃に事態が急変する。豪雨に耐え切れず山が土砂崩れを起こし、集落が丸ごと埋まってしまったのだ。その土砂崩れの様子がまた奇妙であったと、現場を見た男は語った。まずあの集落は三方を山に囲まれた地形であったが、土砂崩れは山の一箇所ではなく集落に接している全ての面で起こっていたのだそうだ。しかも流れた土の量が不自然に多い。山の大きさや崩れた箇所と釣り合わないのだ。
「ありゃあ、どう見たって変だ。普通の土砂災害ではないよ」
「そもそも、旱も大雨もあの集落の辺りでしか起こってないんだよな。何か山や雨の神様の怒りを買うようなことでもやらかしたんじゃないかね。ところであの子かい、例の」
 男達は離れた場所で草花を毟って遊んでいる少女を見た。ミヨである。行商人が道すがら拾ったのだ。彼はミヨのことを直には思い出せなかったが、相手は彼のことを覚えていた様で、彼女の兄に売った商品を見せて身分を証明した。子供らしくミヨの話は要領を得なかったが、恐らくは道に迷って集落の外に出てしまったのだろうと彼は見当を付けた。客の身内であったので無下に扱うことも出来ず、然りとて道を戻れば当初の旅の予定から大きく外れてしまう。困り果てていた所で彼女の集落が壊滅したとの噂が耳に入り、事情を知っていそうな人間に今し方確認を取ったのである。
「ああ。子供には酷だが、今後の方針を決める為にも真実を教えてやらねばなるまい」
「あの子の気持ち次第だが、うちの集落で面倒を見てくれる家があるか聞いてみるよ」
「すまねえな」
 行商の男は自分の宿泊場所を伝えた後、足早に去って行く彼等を見送った。彼等の分の茶代は行商人が負担することにした。無くなった集落では長らく良い取引をさせてもらったので、最後にこの程度のことはしてやっても損にはならないだろうという気になっていた。何より人の良い彼はミヨを少し憐れんでもいたのだ。
 行商人はミヨに声を掛け、縁台に座らせた。
「嬢ちゃん、災難だったねえ。いや、あんただけでも助かって幸いだったか。あんたの住んでた所は土砂で埋まっちまったってよ。ほら、大雨があっただろ。あんたの家族も恐らくは」
「そうですか」
「塞ぎ込んでいたい気持ちは分かるが、ずっとこうしてもいられんぞ。儂も仕事があるんでな。何日も付いていてやることは出来ないんだ。早々にあんたの新しい住処を探さにゃならん。この先には少し大きな集落がある。とりあえずはそこまで一緒に行こう」
「はい」
 もし太助やつぐみが生きていたら、今のミヨの様子に驚くかもしれない。それくらい、今のミヨは素直で大人びていた。だが、元のミヨを知らない行商人は、彼女の返事を聞くと満足そうに頷いた。そして、ミヨの分の菓子と茶を注文する為に店の中へと入っていった。
 その時だった。

 ――えーん、えーん。

 頭の中に子供の泣き声が響いた。ミヨはゆっくりと顔を上げる。すると、少し離れた所に以前会った人柱の子供が立っているのが見えた。顔を真っ赤にして、両手を交互に使って涙を拭っている。
 暫くすると声が複数になり、子供の数が増えた。最初の一人以外は全員見たことがない。きっと彼等も雨乞いの儀式の犠牲者なのだろう。

 ――えーん、えーん、えーん。

 子供達はそれぞれに違った姿勢と表情で泣いている。意味のある言葉は吐かない。ただ泣いていた。
 あの子供達は一体何が言いたくてミヨの前に現れたのだろう。彼等が命を捧げてまで守った集落が滅んだことを嘆いているのだろうか。ミヨが人柱になることを拒んだせいで大切な集落が滅んだことを責めているのだろうか。彼女が自分達と同じ苦しみを味わわなかったことを逆恨みしているのだろうか。
 ただ、一つ確かなのは彼等を前にしてもミヨの心は全く揺らがなかったことだ。彼女は嘗て兄に買ってもらった簪を懐から取り出し、両手で握り締めた。
「謝らないよ、良い子達。あたしは外に出たかったの」
 ミヨがそう言うと子供達の声は次第に小さくなり、体も透明になって、やがて消えてしまった。



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