汚怪々(うけけ)


 壱



 現世と常世の境に「辻の世界」と呼ばれる場所がある。人の世とは異なる節理で動く摩訶不思議な世界だ。そこでは神と妖怪、そして人間が、時に手を取り合い時に争いながら長きに渡って共存関係を続けてきた。
 さて、今回の物語はその辻の世界にある「古橋」という土地から始まる。或る夜のこと、人の姿に化けた一匹の狸の妖怪が薄暗い繁華街の脇道を駆けていた。妖怪たちの間にも酒宴や接待は付きもの。この狸も上司に誘われ、嫌々ながら居酒屋へと付き添ってきた帰りであった。
(ああ、随分と遅くなってしまった。早く帰らないとあいつに叱られる)
 自宅には連絡を送っていなかったので、気が強い古女房はきっと怒り狂っているに違いない。それでも長い付き合いだから「仕事の都合で仕方なく」と言えば恐らく許してはくれるのだろう。狸は走りながら、成る丈早く相方の怒りを鎮める為の言い訳を考え続けていた。
 やがて彼は細い道を抜け、水路沿いへと至る。月明りと街灯の光が、道の脇に立ち並ぶ柳の姿をほんのりと夜闇の中から浮かび上がらせていた。
 彼の自宅はもう近い。水路に掛かった橋を越えた先にある。黒々とした橋の影を見て安堵し、走る速度を落とした狸は履物の裏に滑る様な感覚を覚えて足を止めた。
「おや、地面が濡れている」
 狸は首を傾げた。ここ数日、古橋に雨雲は訪れていない。どこぞの店が水撒きをしたのだとしても、朝昼のことで夜には乾いている筈だ。ならば誰かの吐瀉物か、と思い至り狸はぎょっとして足を上げた。その時だった。
 柳の影の一つが風もないのにゆらりと揺れた。否、柳だと思い込んでいたそれは街路樹にしては異様に太く大きかった。恐らくは妖怪であろう。同じく妖怪でありながら非力な狸は思わず「ひっ」と声を上げた。その悲鳴を聞いて、相手は此方を振り向いた。蛇である。よく見ると、口元には何かを咥えている。
 狸は暫しぼんやりと蛇を眺めていたが、相手が咥えている物の正体を知り、今度は大きな悲鳴を上げて本性である獣の姿を曝け出した。そして、自宅がある方向とは逆――繁華街の方へと走り去っていった。
 一方、蛇は狸を襲うでも追うでもなく静かに佇み彼を見送る。程なくして狸の姿が完全に見えなくなると、重く長い身体を引き摺り、荷物を咥えたまま何処かへと消えていった。


  ◇◇◇


 七日後、古橋の隣にある「三和」の住宅地にて。
「もし、社木先生のお宅は此方でしょうか?」
 書生の様な恰好をした育ちの良さそうな青年が、少しばかり皺の入った紙と見るからに築年数が高い小屋を交互に睨みながら声を張り上げていた。だが、小屋の住人からの返事はない。日が昇り切った午前の時間帯であるので、仕事に出掛けているのかもしれないと思いつつも、青年は念の為にもう一度声を掛けてみることにする。
「あの、もし――」
「合ってるよお」
 言い掛けた所で、成人男性にしては甲高く舌足らずな声が彼の呼び掛けを遮る。玄関ではなく、何故か庭木の中から姿を現した人型の男はにんまりと笑って青年の顔を覗き込んだ。
「先生なんて言われたから、誰のことかと思っちゃった。うけけけけ。初めまして、何処かで見掛けたお坊ちゃん。吾輩が社木念地(やしろぎねんじ)だよう。お客さんかな?」
「はい。出入りの商人の紹介で伺いました、蛇城伊佐弥(へびしろいさや)と申します。事前の連絡もなく、押し掛ける形になって申し訳ございません。何分急いでいたもので。本日は或る事件の調査を依頼させて頂きたく参りました」
 伊佐弥はお辞儀をした後、さり気なく社木の様子を伺う。肩辺りまで伸びた髪はぼさぼさ、尻端折りをした着物は継ぎ接ぎだらけな上によれよれ。表情はにこやかではあるが極端に見え、作り笑顔なのではないかと疑ってしまう。思い返せば、先程の話し方や言葉の間に挟まれた笑声も奇妙奇天烈であった。全体的に小汚い変人という印象を受けるが、身体からは何故か檜の様な香りがする。伊佐弥は胸の内で「ああ」と呟いた。相手が人間であれば不快に感じただろうが、恐らくは妖怪か神に違いない。そうであるならば、彼の奇妙さは人型の外形によって隠された本性から来るものなのだと納得出来る。この辻の世界では、よくあることなのだ。
「うけけ、蛇城家の坊ちゃんかあ。やっぱりねえ。何処かで見掛けたことがあると思ったんだあ。でも、調査って? 今、蛇城家に関係ある事件って言ったら、こないだ古橋の方であった人食いのことだと思うんだけど……吾輩、呪い師だよ?」
「えっ、そうなんですか? こういう事件の対応が得意と伺ったので、てっきり探偵か占術の先生だとばかり思っていました」
「因みに紹介したのは誰?」
「酒屋の十烏さんです」
「十烏、ああ……」
 その名前を聞いて社木は真顔になった。怒っている様にも見える。唐突な変化に驚いた伊佐弥は無意識に仰け反り、直後に「しまった」と言いそうになった。今の反応は相手の機嫌を更に損ねてまったのではないかと。
 だが、腕を組んで俯く社木は伊佐弥の些細な反応など気にも留めなかった。
「十烏さんは以前仕事を受け負ったお客様だけど、あの人は今回の件をそういう事件だと思ったんだ。ふうん」
「あの」
「うけけ。まあ、役人達も既に動いているみたいだし、うちで出来ることがあるかは分からないけど、話すだけは話してみてよ。まずは聞いてみないことには何とも答えられないから」
 相手が再び賑やかな表情を取り戻し、大仰な身振りを加えて話し出したので、伊佐弥はほっと胸を撫で下ろして謝辞を述べた。


 言われるがままに社木宅へと入り手土産を渡した伊佐弥は、茶が出るのも待たずに本題を話し始めた。
「ご推察通り、此の度は七日前に古橋で発生した人食い事件についての調査を依頼させて頂きたくて伺いました。改めてお話しするまでもないかもしれませんが、我々が暮らす辻の世界には人間と妖怪とが共存しており、妖怪の中には食人を行う種も存在します。しかしながら、我々は知性のない獣や魚以外の殺生を禁止されております。互いを攻撃し合わぬことが、共存の大前提だからです。ですが、今回殺害されたのは人間の男性だったと聞いております」
「うけけ、食い殺されたのは間違いないのかい?」
「はい。目撃者が居るのと、現場に噛み傷のある肉片が残されていたそうです。身体の殆どは持ち去られておりましたが」
「ふむふむ」
 道化粧した態度の割に、社木は伊佐弥の発言を丁寧に書き留める。伊佐弥が彼の手元にある紙をちらりと覗いてみると、意外にも整った文字が並んでいた。社木念地の本質は、実は几帳面であるのかもしれないと彼は思った。
「それで、事件の四日後に容疑者として逮捕されたのが、当家の長女である榊子でした。私にとっては姉に当たります。目撃者に依れば犯人は人間の身の丈の数倍はある大蛇だそうで、現在古橋の付近で該当するのは姉しか居ないということと妖気の残滓が当家まで続いていたこと、役人が我々の屋敷を検めた所、被害者の遺体の一部が発見されたことが決め手となりました。しかし――」
「坊ちゃんは、お姉さんが犯人じゃないって考えてるんだねえ」
「ええ。確かに姉は人食いも可能な蛇の妖怪ですし、人間嫌いな上に気性の激しい方ではあります。しかし、自身に流れる名家の血を誇りとしていましたから、仮に妖の本性が強く出たのだとしても、家名に泥を塗るような真似をするとはとても思えないのです。第一、そんな分かり易い証拠を残すものかと」
「どうかなあ。それでも獣の本性に負けちゃう妖怪も居るからなあ。しっかし、一番分からないのが君の心境よ」
「私ですか?」
 社木は態とらしく片方の頬を膨らませる。機嫌の悪さを見せようとしている様子だったが、十烏の名を聞いた時の顔とはまるで違う。
「だって虐められてたんでしょ? 後妻の、しかも人間が産んだ子供だからって。結構、有名だよう。余計なお世話だろうけど、吾輩はこの件、放置しておいても良いと思うんだけどね。お姉さんが帰って来なければ、君は心身共に安泰だ。名門蛇城家も手に入る。まあ、それ以前に事件についてはお役所がちゃんと調べるでしょ。うけけけけっ。どう見ても、吾輩の出る幕はないんだよねえ」
「それでも」
 出だしの言葉を強い調子で発した後に伊佐弥は自身の声の大きさに驚き、次に気まずさを覚えて俯きながらも話を続ける。
「それでも私は姉が無実である可能性があるのならば、それを証明したいのです。傍から見れば酷い仕打ちを受けていた様に見えるのかもしれませんが、私は姉に感謝しています。辛く当たりつつも、あの人は私が屋敷で暮らすことを許してくれたのですから。そうでなければ私は今、五体満足で存在してはおりません」
「そういうもの? うけけっ。まあ、それで坊ちゃんの気が済むなら好きにすれば良いよ。吾輩はあ、報酬さえ払ってもらえればあ、お仕事はちゃんとするからさあ。ま、今回ばかりは良い結果を期待されても困るけどね」
「分かりました。此方は手付金です。どうぞ、お納め下さい」
 銭の入った袋を畳の上に置いた後、伊佐弥は成功報酬についても話す。要するに「金はやるから不満があっても黙って仕事をしろ」ということであった。銭袋を見た社木は初めきょとんとしていたが、やがて顔をぐしゃぐしゃにして笑い出した。
「うけけけけっ。話が早くて助かるよう。では、これは懐に収めて、と」
 自分から報酬の話をしておきながら、社木は袋の中身を確認することなくそれを懐に入れる。年若い伊佐弥はその様子を見ても、彼が報酬の価格交渉の為に仕事を渋っていたのではなく、純粋に善意で忠告してくれていただけだったのだと気付くことはなかった。
「じゃあ、行こうか」
 社木は立ち上がり、そう呼び掛ける。伊佐弥は言葉の意味が分からず目を丸くした。
「行く、とは?」
「犯行現場だよ。吾輩が『成果はありませんでした』って言っても、君、納得しないでしょ。だから、一緒に付いて来て調査状況を見て。ああ、この後用事があるとか?」
「それは大丈夫ですが……。え、本当に僕も行くんですか?」
「うけけけけけけっ! ほい、外出た外出た」
 社木は伊佐弥の腕を掴んで引っ張り上げ、立った後は両手でぽんぽんと背中を叩いて彼を玄関まで押し出した。一方の伊佐弥は「ええ……」と不満を口にしながらも、大して抵抗することもなく表へ出た。



2023・11・23 一部文言を修正

2023・11・23 一部文言を修正

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