汚怪々(うけけ)


 陸



 その後、伊佐弥は三和の北部にある役所の一施設へと連行され、そこで朝まで過ごした。社木も共に捕らえられたが、途中で引き離されたので、彼が今どうしているかは伊佐弥には分からなかった。
 翌日午前、伊佐弥は同じ建物内にある別室へ案内される。
「困りますね、蛇城さん」
 机を挟んだ向かい側に座った管理職の男性は、まず一つ溜息を吐いた後にそう切り出した。榊子の件で図らずも顔見知りとなってしまった相手である。しかしながら今彼が言っているのは、恐らくは人食い事件に関することではなく昨晩の一件についてだろう。伊佐弥は項垂れた。
「すみません。まさかあの様な事態になるとは想像も付かず」
「まあ、そうでしょうね。あの男のことについて、ご存じなかったのだというのは分かります。本人も言わなかったでしょうしね。時々大きくやらかすものですから、我々も人の口に上らぬよう色々と隠したり、監視を付けたりはしていたのですが」
 伊佐弥は昨日屋敷に帰った折に不審な動きをしていた者達のことを思い出す。あれは事件について嗅ぎ回っていた伊佐弥ではなく、社木の動向を監視していたのだろう。そして、彼は真実を知った上でお駒を焦らせて次の行動を引き出す為に利用したのだ。
 社木の狡賢さや役所の遠回しなやり方に不快感を覚えた伊佐弥は、責める様な口振りで言った。
「直接のご対応はなさらないと?」
「本音を言えば、一生牢屋に突っ込んでおきたい所ですけどね。腐ってもあれは神に纏わる者。優遇されがちなのです。その特性は呪物であり、妖怪にも近い存在でありながらね。甚だ迷惑なことですよ」
 乾いた笑顔で語る役人に対して、伊佐弥は「はあ」と気の抜けた相槌を返した。三者共存の理想を掲げる辻の世界であっても、神が関わることとなれば儘ならぬものである。人間にとっても妖怪にとっても、彼等は揺るぎなく「怪異」であった。
 伊佐弥はふと昨晩対面した神のことを思い出した。
(逆に優遇される立場でありながら封印されてしまった彼の神は、余程危険な存在だったのだろう)
 あの神の今の状況は分からない。だが、彼の立場と当時の状態を考えれば、伊佐弥達と同様に役所に引き立てられたとは考え難い。然りとて幾ら危険であっても獣ではないのだから、即殺害ということにもなるまい。ならば、現地で現在対応中といった所か。彼等に非はないというのに、あの神も対応に追われる役人達もつくづく気の毒である。
「ともあれ、お姉様の件に関してお屋敷へのご連絡が遅れ、要らぬご心労をお掛けしてしまいました。深くお詫び申し上げます。本当は榊子さんが無罪であることは早くに分かっていたのですが、此方も神絡みの事件であったので諸々の手続きに時間が掛かりまして。あと、彼女が所内で酷く暴れてくれましてね。釈放が先延ばしになったのです。その、大変申し上げ難いのですが、『人間腹の弟に嵌められた。食い殺してやる』と言って聞かなかったのですよ。きちんと事情を説明しても、全く聞く耳を持たず……」
「そうでしたか」
 我が事とは思えない位に伊佐弥の反応は淡白であった。こうしたことは、彼にとっては日常茶飯事なのだ。過去に何度か彼と接してきた役人も、蛇城家の内情には薄々気付いた様子だった。
「このまま開放すると、新たな殺人事件が起こりかねません。取り合えず、都にいらっしゃる貴方がたのお父様に連絡を差し上げました。お姉様を引き取りに来て下さるそうですよ。もし、お父様が戻って来られても状況が変わらなかったら、然るべき機関へ相談することをお勧めします」
 異なった生態と文化を持つ三つの知性体が共に暮らしている辻の世界では、習慣や見解の相違による軋轢が生じやすい。違う種族の血が混じった身内に対する虐待もその一つで、そういった問題に対応する機関も幾つか存在した。しかし、存在を知ってはいても伊佐弥は今迄その手の機関に相談したことはなく、必要もないと思っていた。今後も必要となることはないだろうと。故に、彼はやはり淡々と上辺だけの謝辞を述べるに留まった。
 伊佐弥の考えを察して、役人は再び溜息を吐いた。そして、話題を戻し釘を刺した。
「蛇城さん、念を押しておきますが、社木には――」
「ええ。依頼していた仕事は終わりましたので、今後会うことはないと思います」
「そうですか。失礼致しました。では、本日はもうお帰り頂いても結構です」
「ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
 互いに一礼した後、伊佐弥と管理職の役人は立ち上がる。部屋の入口を見ると、背後で控えていた別の役人が扉を開けてくれた。伊佐弥はそちらにも礼を言って、案内されるまま部屋を後にした。


  ◇◇◇


「ふう……」
 帰宅は正午過ぎになった。自室へと戻った伊佐弥は畳の上に仰向けに倒れ込み、深い溜息を吐く。ぼんやりと天井を眺めていると、彼の面にすっと影が差した。
「うけけっ、お帰りい」
「うわあっ、社木先生!」
 出会った時と同じ身形をした社木が、伊佐弥の顔を覗き込んでいた。社木が身を引くと同時に、伊佐弥は慌てて飛び起きた。帰宅した際、使用人達は客人が来たことを報告してこなかったから、恐らく社木は許可を得ず忍び込んで待ち伏せしていたのであろう。実に怪異らしい振る舞いである。呆れ返ると共に、やはり神域より生じた者だけあって釈放されたのは彼の方が早かったのだと知った。彼に振り回される役人達の苦労が窺えた。
「どうしてここに?」
「報酬を貰いに来たよう」
「ああ……ああ、そうでしたね。失礼致しました。後でご自宅に使いを送ります。想定以上に危険な目に合わせてしまいましたので、初めに申し上げた価格より少し上乗せさせて頂きますね」
 すると、社木は態とらしく両手を上げて喜びを表現した。
「嬉しーっ! けど、何時ものことだからそんなに気を使わなくても良いんだよう」
「そういう訳には……。そう言えば、ちゃんとお礼を申し上げておりませんでしたね。有難うございました。本当に助かりました」
 一瞬、社木が目を見張るような顔をした気がした。だが、次の瞬間にはまた何時もの奇妙な作り笑顔が頭部に張り付いていた。彼は少し柔らかな調子で話す。
「まあ、吾輩が何もしなくてもお、何れお役所が解決しただろうけどね。坊ちゃんは良い子だね。だから――」
 一拍置いて放たれた言葉には、普段の様に揶揄する色は一切なかった。
「吾輩みたいなのには、二度と関わってはいけないよ」
 その言葉を発した時の社木の表情はまるで能面の様で、温度が一切感じられなかった。伊佐弥は先程社木がした様に瞠目した。
「貴方は――」
「うけけ。あと、十烏さんのことはあんまり信用しないように。以上! じゃあ、吾輩はそろそろ帰るよ。報酬のことだけ、お願いねえ」
 社木の調子はまた普段の通りに戻った。言い掛けた所で遮られた伊佐弥は、自分の言わんとしていたことが何であったのかを忘れてしまい、口を噤む。やがて――。
「はい。お世話になりました」
 そう返して彼と別れることとなった。
 この様な別れ方で良かったのだろうか、他に掛ける言葉はあったのではないか、彼を再び一人にする選択が正しかったのだろうか――そんな苦悩も時が経つに連れて薄れていき、何時の間にか伊佐弥の中から完全に消えてしまった。



2023.12.02 誤字、一部文言を修正

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